イスラム教のほかに キリスト教も原始キリスト教団という立場から言えば
同じ箏なのですが・・・。そこを、ちゃんと言わなかったために信長の時代に
宣教師が布教したのに 禁教鎖国弾圧下の中で仏壇の裏にマリア像を隠したりして
信仰を守っていたいわゆる切支丹、踏み絵を踏まない事は死を意味しているのに
信仰を守った人達がいる。いわゆる隠れ切支丹だ。彼らを何と評すればいいのか
これは切支丹のみならずの問題。信仰を守り死を選ぶいわゆる殉教が宗教として
賛美される事なのか、信仰を守るために、多少は嘘をついても生きていれば
信仰を守り伝承できる どちらも信仰は守られているのだ。
ひとつだけ言えるのは 信じる心は同じであるのに 結果が異なるという信じた
為におこる自己との葛藤だ。