朱の徒然

変形性股関節症の76歳

退院しまーす

2014年06月01日 | 日記


 私の家に帰る不安の一番は、この足で、我が家の階段の昇り降りが出来るだろうか?
でした。  手術前の痛みが、一番辛かったのも階段でした。
 それに、我が家の寝室は2階で、2階のWCが私のお気に入りでした。

 病院で、元気を取り戻したのも、WCからです。
 車いすで通うWCも個室のWCも、そこのウォシュレットが気に入りませんでした。
 1階の外来のウォシュレットが私のお尻の理想でした。
 便秘薬も2回ほど頂きましたが、ダメダメ。秘かに歩行器で、こそこそと1階のWCへ通い、
杖になってからは堂々と1日2回通いました。
 
  お腹の中に不快な重さがないことの気持ち良さ。だからこそ、我が家の2階のウォシュレット
にこだわりたいのです。でも、リハビリ室の物足りない階段昇降訓練だけでは我が家の階段を征
服する自信はありませんでした。

  そこで考えました。外来患者や医者や看護師も休む土曜、日曜の売店側の大きな階段での一人
練習を!

  人に見つからないように1階を避け、2、3階を中心にして杖を頼りに励みました。
 汗もかくので、寝巻を脱いでTシャツ姿で。 終わるとスマ―してエレベーターで自室へ。
 フー、ヘトヘトと横たわりました。これを、2日間。




10回位で自信がつきましたので、看護師に退院したいと申し出をしました。
夫には事後報告でしたので心配されましたが、もう私の中では、病院にいて学ぶことはないと
いう結論でした。

  早速、作業療法士の方から家事の姿勢、車の助手席の乗降の方法、そして一番怖い自宅の浴槽の
出入りを教えて頂きました。その時同席してもらった夫は、スマホで写していましたが、結局実
践でしか分らないことですもの。

  また、介護保険で住宅の手すりの取り付けなどで20万円の補助金が出るとの話もありました
が、80歳過ぎの高名な女流作家がいくら自宅をバリアフリーにしても、自宅以外がそのように
なっていないから逆に危ない。家の中でこそ鍛えねばと云っていたのを思い出しました。


 
  最後の3日間は、朝6時の病院の門が開くのを待って、病院の外を歩きました。
まず、田舎道を・・。ところが車の抜け道らしく、交通量が思いのほか多く、久しぶりの私服と
杖歩行に自信をなくしました。  

2日目は、大きな通りを歩いて観音様を目指してみました。 なかなか遠くて、朝食までに戻ら
ないと行方不明と心配されてはと、途中帰りしました。

  最後の3日目は、隣の自衛隊の一周と思っていましたが、もうこんな経験はしないと思うと、 どんどん足は進み、女子大まで行き、「これで、この町は見切った!?」と退院への喜びを一層 味わい深いものにしました。
 (ただし、ただし、このような外出散歩は、許可なしでは禁止されているとのことで、あとで注
意を受けました。 すみませんでした。 ) 


  これも、歩くことについて、これまでの思い入れがあればこそだと思っています。
 歩くのが好きで、どこまでも、かなりの距離を歩くことを楽しんでいました。


  こうなってみると、擦り切れやすい股関節なのに、歩くことで健康が保てると世間が言ってい
 るので自分もそうだと思い込んでいました。少々痛くても、歩けば解決と思い込んでいました。

 
  でも、無謀な喜びを知っていればこその愉快な人生だと思います。
(ウォーキング・ハイに、どれだけひとりぼっちの心が救われたことか!
それは歩きが好きな人間にしか理解されないでしょう。
疲れて帰ってきてのお風呂は格別でした。)


  退院にあたって、やっぱり一番は夫にありがとう!
 まさか、まさか、この年で、こんな老後の入り口が待っていたなんて!

 誰かに怒鳴りたい不幸だけど、敬愛するKBC人生相談の加藤諦三さんが
「何かを断念するということは、古い世界からの脱出です」とラジオで言っていたけど、
脱出ねー、

まあこの全てを受け入れて、これからは、のんびりと生きていくってことですね。

 私にとっては歩きを断念なんて、幸福感のほとんどを断念することだけどね。

    仕方中山小豆崎!(しかたなかやまあずきざき)
 
 幼いころ親友と遊んでいて、いつも言っていた「しょうがない」の方言です。
『マー イッカ(良いか)』 『次へ行こう、次へ! 』 というような前向きのニュアンスを
強く含んでいます。   ちなみに中山小豆崎とは地名です。


    私の人生の後半が 仕方中山小豆崎だなんて、悔しい!


 『マー イッカ』 『次へ行こう、次へ! 』

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入院生活の後半

2014年06月01日 | 日記


手術後2週間で、3階病棟から4階リハビリ棟へ移動しました。

 移動時には、入院に際し要領が分からず沢山持ち込んだ着替えや本、お見舞いで頂いた花など
ちと恥ずかしいくらいの荷物の量になっていました。

 医療センターの貸し寝衣は、1日45円で、週2回のクリーニング。
 その下に着るTシャツは毎日着替えていました。素肌の上に着ますので、なるべく黒くて透けないものを。
 結婚して40年で初めて下着の洗濯を、夫にお願いしました。


 春の訪れをはるか離れた耳納連山に感じ、近くは病院の正門近くの桜を窓ごしに寂しく眺めました。

 個室でしたので頂いた花を飾ったり、夫が病院に来る途中で摘んできた菜の花などを
窓辺にふんだんに飾りました。 窓辺の小さな春は、滅入りそうな気分を癒してくれました。
 
 夜には、ブラインドを途中までしか降ろさず、ベットの中から夜景を眺めては
眠れない夜をしのぎました。

 自宅での私は、朝までTVを見て過ごすことも多かったので、TVカード1,000円は主婦とし勿体ないと極力節約しました。
 だけど個室料金は高いとは思いませんでした。他人に気を使う煩わしさからの
解放でしたから・・。

 個室のWCは車いすが入らないので、共同のかなり離れたWCまで通っていました。
そこでよく一緒になる方が私より1日早く手術をした方でした。仲良くなって情報交換をしていました。彼女は、私よりも車いすから歩行器そして杖になるのも何日も早く、お住まいに近いリハビリ病院に転院して行かれました。
 私は回復が遅れてるのではないか?? 不安は常にありました。

 よく幼い頃、友人を羨ましがると母が「他家は他家、我が家は我が家」と云っていた言葉を思い出しながら、配膳や従業員の方の通る長い廊下をリハビリ室に通いました。


 リハビリの時間は毎日1時間ですが、理学療法士の若い先生は同時に幾人もの方の担当です。  で、正味40分ぐらいで、タイマーで計りながら腹筋を3セット、錘を足首につけて10分、杖歩行3周といった具合で、私につきっきりではありません。元気になるにつれて少しずつリハビリが物足りなくなっていました。

 だから、病室から道行く人を眺めながら、遥かな西日を大楠の向こうに見ながら、1センチぐらいの厚さの雑誌に右足(手術した足)をのせて踏み込み運動や、リハビリ時にしているように踵を上げてみたり、かっての体操教室でやっていた上半身のストレッチや首回しで時を過ごすようになりました。

 つくづくと思ったことは、過去は無駄じゃない。リハビリ室でも常に音楽が流れています。
尾崎豊であったり、アバであったり。音楽に合わせてつい動かしてはいけない腰でも振りたくなるくらい。 平行棒を歩いていても楽しい気分になりました。

 昨年10月までは「鎌倉パークホテル」で、息子、娘2家族と私たち夫婦12人で楽しく過ごしていたので、この現状が信じられない息子と娘が、それぞれ、はるばると来てくれました。




 3人の幼子を御主人に預けて来てくれた娘は、アロママサージをしてくれました。
また、夫とは一緒にご飯を!やっぱ娘っていいね!
 息子は頼もしく、夫とはゆっくりと二人っきりでのPC伝授の夜を過ごしてくれました。
また御嫁さんは、3人の幼子で忙しいのに、数々の料理を夫の為に詰めて息子に持たせてくれて。

 
 まさかこんなに早く、遠距離介護をしてもらうとは思いもしなかったけれど、
古巣を振り返ってくれた子供達と留守番のそれぞれの伴侶と6人の孫にありがとう!




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