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「民話の心」 群馬県での講演  持谷 靖子

2013年01月12日 00時57分29秒 | 民話(語り)について
 「民話の心」 群馬県での講演  持谷 靖子 ネットより 

 それから、民話。「昔々」で、始まりました。
で、最後に変なことを言ったでしょう。
いちが酒買って、まんがひん飲んだとかって。
こういうふうに民話は形式があるんですね。

 ばあさんがよく言っていました。
「みんなは俳句だ、短歌なんだとやっているけど、民話だってちやんと規則があるんだぞ。
いいか。初めの言葉、終わりの言葉」なんて、言ってね。
全国、全部違いますけどね。

 儀式もあるんですよ、
最初の「ほんとのこったか、うそのこったか、しんねえけど、ほんとのこととして聞かあさい」
なんて言葉が、それぞれの言葉で、ちゃんとお国自慢で。
「あったごんだか、なかったごんだか、しんねえが、ほんとのごんだと思って聞くばならねえぞよ」
なんていうところを聞いたことがあります。
うちのばあさんは、今言った言葉ですね。それで終わりと初めの言葉があったと。

 それから大切なのは、「私は相づちを打たねば、話はしねえ」
「ばあちゃん、話しろ」
「おまえ、相づち打てるんか」
「相づち打つから、昔話してくれ」。
「昔々って、子どもはよく言ったもんだ」って、そのばあさんが言っていました。

「ばあさん、民話を語って」なんて、言ったら、「民話って何だい」なんて言われたんですけど、
最初のころね。「昔」って言って。
「昔語るけど、相づち打てるか」と、「打つ、打つ」って、子どもは言ってね。

 それで、群馬の北のほうじゃあ、私の住んでいるみなかみ町では、
「昔々あったんだと」「ふーん」「ふんとこしょ」「ふーん」「ふんとこしょ」。両方ですね。
それで「ふんとこしょ」が消えると、「なんだ、相づち打てねえから、眠っちまったか」って、
ばあさまが民話はもうそれでおしまい。

 片品という尾瀬のふもとの、あそこの村へ聞きにいきましたら、
「ふんとこしょ、ふんとこしょ」って、こう言っているんですね。
相づち、必ず打った。素晴らしいって、私、そのとき思いました

 相づちを打たない人が非常に多くなって、「どうしたの」って言ったら、
「関係ないから」なんて言う人もいますしね、いろいろなんですけれども。
相づちを打たなければ、人間関係のコミュニケーションが取れない。
コミュニケーションがすごく取りづらくなった。

 昔は家の中でも家族が、子どもが「話しろ」と、「おまえ、相づち打てるんか」って、
家庭内教育していたんですけどね。無意図的なね。それでコミュニケーションの‥…・。
それで、ばあさんが「聞いてくれる人がいるから、語れるんだよ」
「おめえがえれえんだよ、相づちはえれえんだよ」って、こう言って育ったから、
子どもは「うん、ふんとこしょ、ふんとこしょ」って、言って、
それで、家の中できちっとごあいさつできることが教育されていたということが、
私、素晴らしいなと思いました。

 それから、まず何よりも、聞くから話せるのであって、聞く人が第一番なんだよって、
最初に私も言ったけれども、聞く人が偉いんだよって。
聞くから、相づちを打って聞くからね、聞く人が偉いんだよって、最初の話に戻るわけです。
聞くということは、相手の話を拾ってやって、相手の生命を助けてやることになる。