「碧鈴」 第15号 「断片」 風来 武(かざき たけし)
「碧鈴」とはオレが学生時代、入っていた同人雑誌の名前。
そこでオレが書いたモノ。(読みやすいように改行した)
風来 武はオレのペンネーム。
「断片」
「彼の信じられるものは逆説だけだった。
だが、そもそも逆説というものは信じられるものではない。
彼の悲劇はここにあった。」
俺は太陽の子、風来坊だ。
十三の少女と恋がしたい。
僕が十五か十六の頃、先生からフランスの作家(誰だか忘れてしまった)が四十前後になって、
十三の少女と恋をしたという話を聞いた。
その時、僕はある種の感動に胸を打たれながらも、現実にそんな恋をしようとは思わなかった。
いわゆる老いらくの恋というものだろうかということを後で知ったが、
当時の僕にはそんなことはわからなかった。
十五か十六の僕は当然、同年代の女の子を求めた。
だが、その後ずっと、僕は十三の少女との恋を憧れていたのだろうか。
その憧れが十三の少女と恋することの意味を知った今、僕の心の中によみがえった。
十三の少女と恋がしたい。
僕は完全主義者(絶対主義者)
僕は精神主義者
僕は原始主義者
以下は四、五年前に知った詩であるが、不思議に忘れられない詩である。
僕が完全に覚えている唯一の詩である。
子供が噴き出した
この原始の感情を君はどうして偽っているのか
言いたいことは言え
叫びたいことは叫べ
泣きたい時は泣け
笑いたい時は笑え
君はほんとうに今でも
腹の底からこみあげてくるものはないのか
「気狂いになりたい。」
「どうしてだ?」
「あらゆる束縛から解放されるためにだ。」
「気狂いになる以外に道はないのか?」
「ない。少なくとも今の俺には。」
「しかし、気狂いになったら、貴様は人間でなくなるのだぞ。」
「違う。俺は気狂いになることによって、ほんとうの人間らしさを取り戻したいんだ。」
だが、気狂いになるためにも才能がいるという絶望的な真理。
そよ風のように生きたい。
野原を歩いている。
名も知らぬ可憐な花の傍らを通り過ぎる。
ほどなく、優しい香りが身を包む。
人間の交流もかくありたいと思う。
「風は己が好むところに吹く。
汝、その声を聞けども、何処より来たり。
何処へ往くを知らず。
すべて霊によりて、生きる者もかくの如し。」(聖書)
彼は毎日のように国電の駅の改札口にたたずみ、そこを通る人々をぼんやりと見ていた。
彼は待っていた。
誰を?
彼に聞いてみるがいい。
彼は、はにかみながら、こう答えるだろう。
「イブを待っているのです。」
彼はしばらくして、彼と同じように改札口を凝視めている女性を見つけた。
彼は彼女が自分と同種の人間であることを直感した。
はたして、終電車が過ぎると、彼女は淋しそうに去っていった。
三ヶ月後、(その間、二人は相変わらず同じことをくり返していた。)
彼は思い切って彼女に尋ねた。
「誰を待っているのですか?」
「・・・・・」
「一体、誰を待っているのですか?」
彼女はしばし彼を凝視め、俯いてささやいた。
「アダムを。」
「あなたは?」
「イブ」
二人は静かに抱擁した。
その眼には涙が浮かび、消えなかった。
人類誕生以来、もっとも厳粛な瞬間。
アダムとイブがお互いの裸身を初めて見た時。
今村昌平監督の映画「神々の深き欲望」に出てきたトリ子という女。
俺が過去に見たもっとも魅力ある女だった。
性衝動。
不気味な奴。
ボッキした性器の先端に真っ赤に燃えている煙草の火をおっつけたい。
「生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生き甲斐だった。」(安吾の言葉なり。)
俺には放浪の血が流れているのかも知れない。
「五両持って旅に出るんだ!」
これは小さい頃の俺の口癖だった。
天涯流浪の民、匹如身。
人生は戯れに過ぎない。
いや、戯れが人生なのだ。
言葉の遊びではない。
戯れに与えられた生命。
徹頭徹尾、戯れに使い果たすべし。
たったひとつの行為でその人間を判断しようというだいそれた、
無茶なことはしてはならないと思う。
今日の行為と正反対の行動を明日するかも知れない。
君はその矛盾を非難するだろうか。
だが、彼がその二つの行為のどちらをとるかは、まったく戯れなのだ。
戯れの行為が真実であるかどうか、今は問わない。
しかし、これだけは言っておきたい。
たとえ、二つの行為が矛盾していようとも、どちらも真実の行為なのだ。
彼は人生の勝負師。
絶えず今という時に生命を賭けて生きている。
付言するならば、彼は賭ける時、必ず自分に不利な方へ賭けるという。
「君は僕に裏切られたことある?」
「うん。」
「僕は君の前から永久に姿を消す。」
俺はキリスト者がキリストの十字架を背負っているように、俺自身の十字架を背負っている。
限界判断。
これは至極、重要なことなり。
熟慮に熟慮を重ねて、限界を極めるべし。
限界以内の行為だったら、どんな行為でも許される。
だが、一度、限界を超えたら、人に謗られ、人間世界から追放の憂き目にあうだろう。
この限界を極めることは僕の長年の念願だった。
そのための修行をずいぶん積んだつもりだ。
その間、どれほど苦しい思いをしただろう。
でも、僕は耐えてきた。
僕が悟道に達すれば、すべて解決がつくだろうと思っていた。
だが、拙い修行の結果、それは僕には不可能なことだと知らされた。
人間の微妙な心理の動き。
神以外の誰が知り得るだろう。
俺がそれこそ死をもって守っている一線を貴様は無残に踏み越えてしまう。
人里遠い山奥の泉のほとりで、鷹が翼を休めていた。
そこに無数の小鳥たちが飛んできた。
小鳥たちは渇していた。
しかし、鷹が恐ろしくて近づけなかった。
鷹は小鳥たちが渇していることを、また自分を恐れていることを察した。
そして、鷹は従容として、飛び去った。
小鳥たちは喜んでいっせいに泉に舞い降り、渇きを癒した。
だが、無数の小鳥たちの中、誰が知ることができただろう。
鷹の孤独と苦悩を。
酔生夢死の生涯に憧れる。
と共に、めくるめく幻想の中で生きたいとも願う。
彼は医者も見放す重い病気にかかっていた。
死期がせまり、親族の者が呼び集められた。
かれは、「死んでたまるか。まだ俺にはやる仕事が残っているのだ。」
と必死に自戒していた。
だが、病には克てず、意識不明に陥った。
数日後、医者は静かに脈をとり、眼球を調べ、おごそかに言った。
「ご臨終です。」
親族の者がどっと泣きくずれた。
驚くべき異変は、その後、起こった
突如、彼はかっと目を開き、起き上がり医者を見やるや、不敵に笑い、
「馬鹿野郎!俺はまだ死にゃしねぇ!」と叫んだのだ。
そして、一同の驚きにもかまわず、一目散に往来に飛び出し、全力で走り、
「俺は死なんぞ!」と、絶叫して、どしんと倒れた。
今度はさすがの彼も絶命した。
壮絶な戦闘死。
男というものはな、どんなに苦しくたって、苦しいと言っちゃならねぇんだ。
言ったが最後、男でなくなるんだ。
僕は永遠のみの虫小僧、
いつも、ひとりぼっち。
(後記)
こういう形での発表はやはり卑怯だと思う。
だが、今の僕にはこういう方法しかとれなかった。
許しを乞う。
願わくは、これらの断片が、断片のための断片に終わっていないことを。
僕は今、感覚だけで生きている。
思考することが面倒くさくてならない。
だが、僕はこれらの断片を書くのに極力感覚を抹殺するように努めたつもりだ。
思考の足りないこれらの断片はみな未熟児たる運命をもっていただろう。
それ故に、苛立った読者に対しても許しを乞う。
そのお詫びにではないが、僕は今後、これらの断片のいとつひとつをもっと深く追求して、
それぞれ、ひとつの作品にしたいと思う。
これらの断片が、いつまで僕の心をとらえているか、保証はないが。
終わり
「碧鈴」とはオレが学生時代、入っていた同人雑誌の名前。
そこでオレが書いたモノ。(読みやすいように改行した)
風来 武はオレのペンネーム。
「断片」
「彼の信じられるものは逆説だけだった。
だが、そもそも逆説というものは信じられるものではない。
彼の悲劇はここにあった。」
俺は太陽の子、風来坊だ。
十三の少女と恋がしたい。
僕が十五か十六の頃、先生からフランスの作家(誰だか忘れてしまった)が四十前後になって、
十三の少女と恋をしたという話を聞いた。
その時、僕はある種の感動に胸を打たれながらも、現実にそんな恋をしようとは思わなかった。
いわゆる老いらくの恋というものだろうかということを後で知ったが、
当時の僕にはそんなことはわからなかった。
十五か十六の僕は当然、同年代の女の子を求めた。
だが、その後ずっと、僕は十三の少女との恋を憧れていたのだろうか。
その憧れが十三の少女と恋することの意味を知った今、僕の心の中によみがえった。
十三の少女と恋がしたい。
僕は完全主義者(絶対主義者)
僕は精神主義者
僕は原始主義者
以下は四、五年前に知った詩であるが、不思議に忘れられない詩である。
僕が完全に覚えている唯一の詩である。
子供が噴き出した
この原始の感情を君はどうして偽っているのか
言いたいことは言え
叫びたいことは叫べ
泣きたい時は泣け
笑いたい時は笑え
君はほんとうに今でも
腹の底からこみあげてくるものはないのか
「気狂いになりたい。」
「どうしてだ?」
「あらゆる束縛から解放されるためにだ。」
「気狂いになる以外に道はないのか?」
「ない。少なくとも今の俺には。」
「しかし、気狂いになったら、貴様は人間でなくなるのだぞ。」
「違う。俺は気狂いになることによって、ほんとうの人間らしさを取り戻したいんだ。」
だが、気狂いになるためにも才能がいるという絶望的な真理。
そよ風のように生きたい。
野原を歩いている。
名も知らぬ可憐な花の傍らを通り過ぎる。
ほどなく、優しい香りが身を包む。
人間の交流もかくありたいと思う。
「風は己が好むところに吹く。
汝、その声を聞けども、何処より来たり。
何処へ往くを知らず。
すべて霊によりて、生きる者もかくの如し。」(聖書)
彼は毎日のように国電の駅の改札口にたたずみ、そこを通る人々をぼんやりと見ていた。
彼は待っていた。
誰を?
彼に聞いてみるがいい。
彼は、はにかみながら、こう答えるだろう。
「イブを待っているのです。」
彼はしばらくして、彼と同じように改札口を凝視めている女性を見つけた。
彼は彼女が自分と同種の人間であることを直感した。
はたして、終電車が過ぎると、彼女は淋しそうに去っていった。
三ヶ月後、(その間、二人は相変わらず同じことをくり返していた。)
彼は思い切って彼女に尋ねた。
「誰を待っているのですか?」
「・・・・・」
「一体、誰を待っているのですか?」
彼女はしばし彼を凝視め、俯いてささやいた。
「アダムを。」
「あなたは?」
「イブ」
二人は静かに抱擁した。
その眼には涙が浮かび、消えなかった。
人類誕生以来、もっとも厳粛な瞬間。
アダムとイブがお互いの裸身を初めて見た時。
今村昌平監督の映画「神々の深き欲望」に出てきたトリ子という女。
俺が過去に見たもっとも魅力ある女だった。
性衝動。
不気味な奴。
ボッキした性器の先端に真っ赤に燃えている煙草の火をおっつけたい。
「生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生き甲斐だった。」(安吾の言葉なり。)
俺には放浪の血が流れているのかも知れない。
「五両持って旅に出るんだ!」
これは小さい頃の俺の口癖だった。
天涯流浪の民、匹如身。
人生は戯れに過ぎない。
いや、戯れが人生なのだ。
言葉の遊びではない。
戯れに与えられた生命。
徹頭徹尾、戯れに使い果たすべし。
たったひとつの行為でその人間を判断しようというだいそれた、
無茶なことはしてはならないと思う。
今日の行為と正反対の行動を明日するかも知れない。
君はその矛盾を非難するだろうか。
だが、彼がその二つの行為のどちらをとるかは、まったく戯れなのだ。
戯れの行為が真実であるかどうか、今は問わない。
しかし、これだけは言っておきたい。
たとえ、二つの行為が矛盾していようとも、どちらも真実の行為なのだ。
彼は人生の勝負師。
絶えず今という時に生命を賭けて生きている。
付言するならば、彼は賭ける時、必ず自分に不利な方へ賭けるという。
「君は僕に裏切られたことある?」
「うん。」
「僕は君の前から永久に姿を消す。」
俺はキリスト者がキリストの十字架を背負っているように、俺自身の十字架を背負っている。
限界判断。
これは至極、重要なことなり。
熟慮に熟慮を重ねて、限界を極めるべし。
限界以内の行為だったら、どんな行為でも許される。
だが、一度、限界を超えたら、人に謗られ、人間世界から追放の憂き目にあうだろう。
この限界を極めることは僕の長年の念願だった。
そのための修行をずいぶん積んだつもりだ。
その間、どれほど苦しい思いをしただろう。
でも、僕は耐えてきた。
僕が悟道に達すれば、すべて解決がつくだろうと思っていた。
だが、拙い修行の結果、それは僕には不可能なことだと知らされた。
人間の微妙な心理の動き。
神以外の誰が知り得るだろう。
俺がそれこそ死をもって守っている一線を貴様は無残に踏み越えてしまう。
人里遠い山奥の泉のほとりで、鷹が翼を休めていた。
そこに無数の小鳥たちが飛んできた。
小鳥たちは渇していた。
しかし、鷹が恐ろしくて近づけなかった。
鷹は小鳥たちが渇していることを、また自分を恐れていることを察した。
そして、鷹は従容として、飛び去った。
小鳥たちは喜んでいっせいに泉に舞い降り、渇きを癒した。
だが、無数の小鳥たちの中、誰が知ることができただろう。
鷹の孤独と苦悩を。
酔生夢死の生涯に憧れる。
と共に、めくるめく幻想の中で生きたいとも願う。
彼は医者も見放す重い病気にかかっていた。
死期がせまり、親族の者が呼び集められた。
かれは、「死んでたまるか。まだ俺にはやる仕事が残っているのだ。」
と必死に自戒していた。
だが、病には克てず、意識不明に陥った。
数日後、医者は静かに脈をとり、眼球を調べ、おごそかに言った。
「ご臨終です。」
親族の者がどっと泣きくずれた。
驚くべき異変は、その後、起こった
突如、彼はかっと目を開き、起き上がり医者を見やるや、不敵に笑い、
「馬鹿野郎!俺はまだ死にゃしねぇ!」と叫んだのだ。
そして、一同の驚きにもかまわず、一目散に往来に飛び出し、全力で走り、
「俺は死なんぞ!」と、絶叫して、どしんと倒れた。
今度はさすがの彼も絶命した。
壮絶な戦闘死。
男というものはな、どんなに苦しくたって、苦しいと言っちゃならねぇんだ。
言ったが最後、男でなくなるんだ。
僕は永遠のみの虫小僧、
いつも、ひとりぼっち。
(後記)
こういう形での発表はやはり卑怯だと思う。
だが、今の僕にはこういう方法しかとれなかった。
許しを乞う。
願わくは、これらの断片が、断片のための断片に終わっていないことを。
僕は今、感覚だけで生きている。
思考することが面倒くさくてならない。
だが、僕はこれらの断片を書くのに極力感覚を抹殺するように努めたつもりだ。
思考の足りないこれらの断片はみな未熟児たる運命をもっていただろう。
それ故に、苛立った読者に対しても許しを乞う。
そのお詫びにではないが、僕は今後、これらの断片のいとつひとつをもっと深く追求して、
それぞれ、ひとつの作品にしたいと思う。
これらの断片が、いつまで僕の心をとらえているか、保証はないが。
終わり