標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

「水と緑と詩のまち」前橋市のシンボル広瀬川を散策

2017-08-26 21:32:59 | 日記

昭和歌謡で歌われる仙台市の広瀬川ではない。群馬県前橋市の広瀬川だ。約1.2kmに渡り、河畔の遊歩道が整備されている。7m程だろうか(もしかしたらもっと高いかもしれない)、流れに沿って両岸に柳の木がそびえている。今日は34度の真夏日。前橋は全国でも暑い都市の一つだが、広瀬川河畔は風が通り、汗が心地よかった。私も思っていたが、妻が「柳というと幽霊を連想するね」と発言した。風や川の流れだけでなく、柳に幽霊という古い観念のために一層涼しさを増したのかもしれない。


散策路というから、流れがゆったりとした小さな河川を思っていた。しかし、地図を見ながら前橋公園を過ぎたところで、橋から川を見た途端驚いた。勢いよく、水量も多く流れる川だった。橋が水につかりそうであった。8月に入ってからの雨で増水しているのだろうか?
疑問を抱きつつも、我々はゆっくりと散策路の左右にある歌碑やオブジェなどを見ながら歩いた。前を行く地元の人と思われる女性に水量のことを聞いたところ、いつもこの状態とのことだった。


ガゼボもあり、散策にはとても良い場所だ。


堰。それほど段差は内容だが、水流が激しいために下流は白く濁る。


堰の説明文。


この1.2kmの範囲には9つの橋がある。その一つ絹の橋。


水車が散策路の川岸側に設置されていて、回っていた。


老木の周りの花壇に咲くヤブラン。


石で作られた椅子。鬼の顔だろうか?


川を見ているフクロウ。


万歳する児童。


指しゃぶりの幼児。

行程の中ほどだったか、後ろから来た別のご婦人と妻が、いつの間にか話していた。婦人は群馬県の他市から美術館に来たという。昔、大学に通っていたころ前橋に住んでいた。そのころはこんな川でなかったし、周りも整備されていなかった。ずいぶん変わったと話していた。定年後は日々、習い事などをしているとのこと。詩を読む、習字を習う、絵を描く、山に登ったり、やることが一杯あって楽しいと言う。15分ほど話したら、それではお先にと言って、黒い日傘をさしながら去っていった。おしゃべりも歩き方も、まるで川の流れのようなご婦人であった。

このご婦人の出現は、風や川の流れとともに異次元からやってきた夢かと思える一コマであった。買い物がてらの小旅行の爽やかな思い出であった。
(つづく:川の話題でないエピソードを明日書きます。)
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自作した小さな庭の小道、苔むしたレンガもまた楽しみ

2017-08-25 18:59:35 | 日記
西側から見た庭の全景

庭は家の南西側に面していておよそ横14m、奥行6mほどの広さだ。ここに妻が植えた木々や草花が植わっていた。妻も私も自認する林の状態。しだいに足の踏み場もなく、雑草や落ち葉などの掃除がしにくくなったので、6年前に整備した。庭の南西を結ぶ小道とわき道を作り、レンガを敷いた。

草花などの植え替えなどはもっぱら妻が行い、レンガ張りは私が行った。これらDIYは、無心になれて楽しい。作業の前は図面とか工程を考えたり、材料の調達。振り返ってはやり直したり。完成後は、小道を自己満足気に歩いたり。楽しみは続く。今は苔むしたレンガの上を歩くのも楽しい。

小道とわき道は全部を歩いても50mにも満たないが、木陰が多く涼しい。風が少しでも吹いていると一層心地が良い。しかし、さすが猛暑日には暑かった。また、夕方になると蚊が出てくるので閉口する。蚊取り線香と虫よけスプレーが欠かせない。

この散歩道には、妻が集めているかわいらしいオブジェがある。


ソーラーで点灯するランプ二つ。


かごに入った、ガラスでできた野菜。


発泡スチロールの板でできた猫を枝からつるしている。揺れるとビー玉の眼が光る。


多肉植物、ガラス製の野菜と陶器でできたボール?


太い枝からつるしている。ガラスの器に水を入れ、ガラス玉を沈めている。鳥の水飲み場。  

枝から下がる妻の知人から頂いた風鈴。


ドキンちゃんのペンダント。


昔飼っていた室外犬の水飲みカップ。今は鳥の水飲み用。


陶器でできた像さん。2対あり、門の左右に置いてある。


街灯。残念ながら熱源はガスではなくて電気だ。

妻はとにかく草木が好きだ。今までは何気なく見ていただけだった。これらのオブジェを見てみて、花だけでないオブジェ志向の新たな妻の側面を発見した。
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秋の花見:萩はパイオニア植物の一種だ

2017-08-24 19:05:28 | 日記
萩の花


萩の花が咲きだした。萩はパイオニア植物の一種とのこと。パイオニア植物とは裸地に初めに咲く植物のこと。また、斜面などに植えられて緑化対策として使われるとのこと。荒れ地でも育ちとても生命力の強い生き物だ。萩は古代から親しまれていた花のようで、万葉集に萩の花が多く詠われている。

例えば、
    秋風は 涼しくなりぬ 馬並(な)めて
         いざ野に行かな 萩の花見に
               作者不詳
古代人は春には桜の、秋には萩の花見をしたのだろうか。春の桜は穏やかな花見だが、草原を馬で駆けめぐる萩の花見は雄大な風景だ。古代の山野ではツクツクボウシの鳴き声がここかしこから聞かれ、草原ではコオロギが鳴き始めていたのだろう。山萩は白い小さな花で桜のような華やかさはない。古代人は秋の訪れと冬を予見する寂(さび)を味わっていたのかもしれない。

久しぶりの青空

今日は、8月に入って初めて朝から青空が見える。気温も30度を超えて暑かったが、木陰の風は心地よかった。萩の花とともにちょっぴり秋を感じることができた。

追記:
咲きだしたハナトラノオと残花の紫陽花

後ろには紫陽花が残っているが、手前はハナトラノオの花が咲きだした。我が庭の一番花だ。花にも季節の交代時期が来ている。

ハナトラノオ


さよなら紫陽花


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オクラの花も1日花、花言葉は「恋の病」

2017-08-23 19:12:11 | 日記


切り取ったかカボチャなど


収穫した野菜:ミニトマト、オクラ、ピーマン、ミョウガ、ブルーベリー

昨日は外出したので、畑に行かなかった。今日は猛暑日になりそうだったので、涼しいうちにミニトマトの収穫に行った。一日置いただけで、真っ赤なミニトマトが多量に取れた。カボチャは数週間経ってもほとんど育たっていなかったので、今年は栽培を中断することにした。小さな実を収穫した後、葉や根を切り取った。でも、そのお陰でナスやオクラへの日当たりが良くなりそうだ。

勢ぞろいしたカボチャ13個

カボチャの大きさは5cm~11cmだ。大きめのは何とか食べられそう。我が家の犬はカボチャが大好きなので彼の補食になる。

オクラの花

オクラの花を発見した。今までカボチャのつると葉で隠れていたので、見られなかったのか。または、オクラの花は1日花なので収穫時には萎んでいたのかもしれない。

やや横から見たオクラの花姿

花言葉は「恋の病」とのこと。きれいな花を咲かせるが、すぐ萎んでしまう様から。さらに、実も花をつけてから1週間ほどの収穫時期を逃すと大きくなり、硬くなり食感が劣る。花も実も変化が激しいのでこの花言葉がつけられたらしい。

オクラの実 

別の花言葉は「恋によって身が細る」という。オクラのことをアメリカでは別名、レディス・フィンガーといわれている。実の先が女性のスラっとした指先に似ているからだという。

話をややもどそう。私の説になるが、花の美しさからも「恋の病」に結びつくと思う。5枚の大きめの花弁がよい具合に重なっている。黄色というよりクリーム色に近い花弁は、ソフトに感じる。そして花の真ん中は深紅色だ。深紅の恋の激しい思いを中に包み込んでしまう中間色の黄色い花弁。甘い憂いが漂う恋の病を表しているかもしれない。悲しい失恋とは違った「恋の病」という語に甘い思い出で病む。もし、花弁がブルーだったらあまりにも冷たすぎる。「恋の病」ではなくなるのではないか。

そういえば、私の「恋の病」はいつだったのだろうか。小学校4、5年生のころ同クラスの女子から抱きつかれたという思い出がある。残念ながら私はその子に恋心を抱いていなかったので、恋の病に罹るはずはない。でも、この出来事が恋心を知ったきっかけだったかもしれない。あるいは、小学校1年生の時、担任のきれいな先生だったのだろうか。今でも微かに顔を思い浮かべられる。当時はそれが恋だとは認識できなかっただろう。年甲斐もなく赤面しつつ脱稿。
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飯能にある秩父御嶽神社に立ち寄る。ひと時の冷気を味わってきた。

2017-08-22 20:20:37 | 日記
今日は越生にある霊園にお墓参りに行ってきた。我が家は代々無宗教なので、盆や彼岸の期間内にお墓参りをするならわしはない。したがって通常の盆や彼岸の前後のどちらかに墓参りをすることが多い。


この帰りに飯能の吾野にある秩父御嶽神社に行ってきた。今日この神社を訪れるまで秩父地方は正丸峠を超えた西側だと思っていた。神社の名前の冒頭に「秩父」が付くのか不思議に思いながら向かった。すぐに謎が解けた。この神社は明治27年(1894年)に鴨下清八という人が創建したという。そのころ吾野地域は秩父郡に属していたとのことであった。


今日はやや薄日がさし、数日来の雨は降らなかったが、相変わらず蒸し暑い日だ。山門を通り抜け、社務所を過ぎ、先に進むと林の中入った。急に涼しさを感じた。まるで熱いさなか、ショッピングセンターの入口のオートドアを入った瞬間と同じだった。冷気が体を包んだ。木が高く茂り、参道の脇には小川が流れていた。ちょっと興ざめだったのはその川底はコンクリート張りだ。でも、ランダムに置き石があり、水が潤っていた。木陰と水の流れが涼しさを運んでくれたのだろう。

更に進むと小川がなくなり、参道というより林道になった。目の前に200段を超える階段が現れたので登った。先ほどの涼しさは何処かに飛んでしまった。


山頂からは見通しのよい日はスカイツリーが見えるという。妻はサンダル履きであったし、家には愛犬が待っている。今日はここまでとした。次回はハイキングの準備をしてこようと誓い下山した。駐車場に折りたときは汗だくであった。


神社の創建者が東郷平八郎元帥の銅像を建て、広い神苑を東郷公園と称している。東郷元帥というと日ロ戦争と結びつく。私としては訝しく思った。しかし、同像を建てた鴨下清八が時の総理大臣に無条件降伏を上申したという。戦争終結に関わった人がいたと知ってほっとした。安心してまた来られると思った。



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