以前に、出雲地域を旅行した際の写真に、各歴史遺跡に関する少々の情報を添えて記事にした事がありますが、特に重要な神社についてはもう少し情報を追記してまとめた直したいと思っていました。この新型コロナ感染拡大でなかなか新しい所に行こうという気になれないので、これをきっかけに始めてみます。まずは、出雲国一之宮とされる、熊野大社です。
・駐車場から望む
【゛熊野゛の意味】
「出雲国風土記」に、杵築大社(出雲大社)と共に大社の名で呼ばれ、その杵築、及び佐太、野城と併せて出雲四大神の称号を与えられ、当時は常にそれらの筆頭に置かれていたのが、この熊野大社です。熊野のクマは、「和名抄」の”久万之禰”のクマ、即ち米の意味だという説があり、以前アップした記事でも食物の意味とご紹介しましたが、谷川健一氏編「日本の神々 山陰」で石塚尊俊氏は、”隈々しい所”、つまり隠れて良く見えない所、というよく使われた地名だろうと考えられています。熊野というと紀伊、和歌山の熊野が超有名で、あの本居宣長による「古事記伝」以来、この出雲の熊野社との本末関係が言われましたが、石塚氏は他にも多くあるので、この考えは成り立たない、とされています。
・入口の鳥居。神橋で意宇川を渡ります
【ご祭神、出雲大社との関係】
ご祭神は、「風土記」では伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命、つまり”若々しい御子神”という意味の表現ですが、「延喜式」にある”出雲国造神賀詞”には、伊射奈伎乃日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命とあり、”霊妙なる御食つ神”という意味の神になってます。「日本書紀」斉明帝の時期に、”出雲国造に命せて厳神の宮を修めしむ”との記載は、この熊野大社の事とする考えがあり(出雲大社とする考えも存在しますが)、出雲国造はこの神社を国内第一のものとして祀っていました。先の出雲国造神賀詞でも、先ず熊野の神が先で、次に国作り坐しし大穴持命、つまり出雲大社との二柱を、と語られているのです。熊野大社近辺は当時、出雲国造の本貫地と考えられています。
・随神門
これは朝廷の扱いでも同じで、「三代実録」での神階の記載は、常に杵築大社より熊野大社が上でした。さらに、「令義解」での天神、地祀の説明では、”天神とは伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造が斎く神(熊野大社)。地祀とは、大神、大倭、葛城鴨、出雲大汝神(出雲大社)”と、熊野大社は天神とされていました。一方、「先代旧事本記」では、両大社の祭神を素戔嗚命だと書いています。先の石塚氏は、この時期、出雲国造の政治的立場の変化、つまり政権的権力の弱まりを補強するために、記紀が重視する素戔嗚命を熊野大社の祭神にしたと説明されます。しかし、その甲斐なく国造家の権限ははく奪され、一段格下だった出雲大社に移動、その祭神も素戔嗚命とした時期があったようです。そして熊野大社は現在もご祭神として素戔嗚命を補記しています。
・舞殿
【中世以降】
しかし、国造が移った後から出雲大社の繁栄が始まりました。鎌倉時代までは、まだ熊野大社は出雲の一之宮でしたが、この称号も室町時代の末頃には杵築大社に移りました。さらに熊野社にとって痛手となったのが、紀伊熊野神の進出でした。江戸時代の1717年の「雲陽誌」によれば紀州系と思しき熊野神社は出雲国内で61もあったそうです。近世には、現社地の上手約一町ほどの所に出来た紀州系の社を「熊野上ノ宮」といい、古来の現熊野社を「熊野下ノ宮」と呼ばれるまでになったのです。下ノ宮は、上ノ宮に対抗する為、天照大神を主祭神とした事もあったと云います。
・拝殿
明治時代に入り、神社整理が行われ、当社も上下両者を一本化、社名を熊野神社と改めます。旧上ノ宮を伊邪那美神社と改称し、下ノ宮の前面にあった稲田神社とを摂社として、後にこれらを本殿の両側に移したのです。昭和52年に社名を熊野大社と改め現在に至ります。
・本殿
・稲田神社。本殿向かって右側です
【鑽火祭】
10月14日の例祭の翌日の、「鑽火祭」が特殊神事として有名です。これはこの神社で新調した火鑽臼と火鑽杵を出雲大社へ発遣する祭で、元は神魂神社の前面にあった国造家別館で行っていました。明治の改正で、太古の方法に返すとして、当社で行うようになったのです。祭の当日、出雲大社から国造以下数人の神職が、長方形の餅を持参して受領に参向しますが、熊野側で迎える「亀太夫」がその餅に難癖を付けます。これは、散々に抵抗した末に負ける事で相手の大神の威力の逞しい事を顕彰するという趣旨によるようですが、今は形式的なものに留まっているのが実情らしいです。
(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)
・伊邪那美神社。本殿向かって左側です
・境内
【伝承】
東出雲王国伝承では、この熊野大社は3世紀の九州東征軍による”国譲り”争乱以降に、旧東出雲王家の富氏(向氏)が宮殿として使用し始めた場所だと説明します。やむなく移動したのです。だから隈々しい山峡の地なのです。出雲国造の方は熊野大社より意宇平野側の、神魂神社の近くに住みました。富氏は移動先の館に祠を建て、サイノカミ三神の中心クナト大神と事代主命を祀ったと云います。それを、8世紀になり、出雲国造が奈良で神賀詞を奏上した際、ご祭神に「くしみけ野命」を勝手に加えた、と主張しています。この神は国造家の祀る中国起源の「社稷神(食物神)」で、つまりは「宇迦之御魂」だというのです。
このように富氏ら旧出雲王家と国造家は微妙な関係を維持していましたが、奈良時代になり国造家が奈良政府と強い関係を持ち出した事から、旧王家側が国造家に対していろいろ規則を作ったらしいです。その一つが上記の゛亀太夫神事゛であり、古代には熊野大社が優位にあった事を示していると主張されます。同様に境内の鑽火殿(タイトル写真)で火鑽臼と火鑽杵が準備される、出雲大社の神主の後継ぎ神事もこの時決められたそうです。これ以外にも、出雲国造家と富氏ら旧王家との関係についての、古代から戦前くらいまでの間の興味深い話が、「出雲と蘇我王国」に述べられています。