現在では、高槻市で野見神社と言いますと、まずは阪急京都線の高槻市駅に近い野見町の、下の写真の野見神社になると思います。私も、子供のお宮参りで大変お世話になりました。下は今年お正月の拝殿前の様子です。この後も境内の外まで約60mほど列が続いていました。。。
神社の公式のご由緒では、創建は9世紀後半、この地域で悪病が流行し多くの死者が出たのですが、神託により牛頭天王をお祀りしたところ終息。そこで社殿を造り牛頭天王社として祀ったのが起源、と説明しています。明治になって、神仏分離令により、牛頭天王を素戔嗚命とし、さらに野見宿禰を合祀し、名前が野見神社になったという事です。
ところが、高槻市のホームページでは、元は上宮天満宮付近にあった、延喜式内社濃身神社が移ってきた、という説明になっています。神社の説明は創建時に”野見”の名前すら出てこないですから、不思議ですね。今回の記事は、この元とされる天神町の式内社、野見神社をメインに据えて取り上げます。
その野見神社は、現在は、こちらも高槻で有名な、上宮天満宮の摂社となっています。なので、その参道の坂道を登っていきます。
最初の坂を上ると、摂社や、遺跡名も記載された看板が掲示されてます。
さらに緩い坂をもう一息。。。
同じ日でしたので、登りきると、また上宮天満宮への長い参拝待ちの列。
振り返ると、大元とされる野見神社が鎮座しています。そして、確かに古墳の盛り土の上に建てられています。
上宮天満宮の社伝では、上宮のご由緒は以下となっています。
”正暦四年(993年)勅使菅原為理が太宰府の道真廟に参拝して左大臣正一位追贈の詔を伝えての帰路、この地に来てとつぜん神輿が動かなくなり、為理が卜占して神慮を問うと、菅神が告げるには、「この地は野見の里と称し、この山上は祖廟が有る。野見宿禰は菅原の祖である」とあったので、ただちに為理は道真の画像を奉安して社殿を建て。。”
これによると、993年には既に式内社としての野見宿禰の神祠があったのです。よって、式内社は天神町のコチラとなります。この地域は「和名抄」摂津国島上郡”濃味”郷にあたります。
また一般に、野見宿禰は古墳造営や埴輪製造の技術集団、土師氏の祖とされており、その土師氏から菅原・大枝・秋篠などと氏姓を改めていったと理解されています。つまり菅原道真は野見宿禰の後なのです。
東出雲王国伝承では、野見宿禰はもともと東出雲王家の富氏の御方であり、東出雲王国最後の王だったとしています。既に、大和に東征していたイクメ王に招聘され、名前を”野見”に変えて大和に来た野見宿禰は、イクメ王の敵と、相撲ではなく、戦を行い追っ払ったそうです。”宿禰”はイクメ王から与えられた称号です。宿禰は出雲に帰りますが、途中、当時の播磨で亡くなり、たつの市の野見宿禰神社の古墳に埋葬されました。したがって天神町は野見宿禰ではなく、子孫の土師氏の墓と思われます。時代も違いますし。
その野見神社、上宮天満宮の直ぐ南にあるのが、三島古墳群の前方後円墳の最後を飾る、昼神車塚古墳です。6世紀半ばの築造とされています。
前方部のテラス上に、今は出土した埴輪のレプリカが並べられていて見学できます。猟犬が猪を追い詰める狩りの情景を表現しているとされ、猟師などの人物も確認出来ます。その埴輪の現物は、なんと今城塚古墳や太田茶臼山古墳へ埴輪を供給したのと同じ、新池埴輪製造工場で造られた事も分かっているのです。三島古墳群で新池の埴輪を使ったのは、先の2大古墳と、太田茶臼山古墳の近場で同時期に造営された土保山、塚回り、二子山、番山ら以外では、この昼神車塚古墳だけです。
埴輪列は、丁度トンネルの上。トンネル上に墳丘の一部を残しています。
太田茶臼山古墳の記事の中で、東出雲伝承では継体帝が東出雲王家の子孫であり、同じ新池で製造された埴輪を自身の墓に並べた事で、太田茶臼山古墳の被葬者との絆、つまり血縁が想定されているので、茶臼山古墳の被葬者も東出雲系の御方では!?と推定しました。そしてさらに、昼神車塚古墳は野見神社も含めて間違いなく土師氏の古墳と言える事から、もともと新池埴輪工場も土師氏が強く関与していた施設だと考えたいのです。
つまり、溝咋の玉櫛姫が東出雲へ輿入れした縁は、その後も東出雲と摂津三島をつなげ続け、この5~6世紀の時代も、摂津三島は東出雲系の人々との強い交流・関りを持ち続けて発展をし続けたと考えたいと思っています。
(伝承以外の参考文献:「日本の神々」谷川 健一氏編、「今城塚と三島 古墳群」森田克行氏)