摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

摂津国一之宮 住吉大社 1 ~航海の守護神、住吉三神の謎~

2019年01月02日 | 大阪・南摂津・和泉・河内


2019年もめでたく幕を開けましたが、昨年の大阪は、大阪府北部地震や台風21号で、近年にない被害を被った事もあり、今年はそれを跳ね返すくらいの"善き事"を願っております。



今回は、今年のお正月も例年通り多くの参拝者で賑わってるであろう、大阪で最も有名な神社で、全国約2300有るという住吉神社の総本山、住吉大社を。昨年暮れの普通の週末に訪れましたので、その時の写真と共に、この重要な神社にまつわる論考や伝承を記載したいと思います。ただ、摂社、末社や見どころが多数ありすぎで、全部は廻れませんでした。。。(後日参拝させていただいた、大海神社についてはコチラで)


・独特の四角い柱の二の鳥居

神社の境内に入りますと、とにかく目に付くのが、多数の巨大な灯篭の数々。江戸時代以降に、廻船問屋やいろんな業界の集団から寄進されてきたものだそう。総数634基。興味のある方には、これだけでも十分見ごたえが有るでしょうね。関西大学の作成されたマップが分かりやすいです。


・生魚を商っていた雑喉場(ざこば)魚市場の商人からの灯篭

神社による公式ご由緒によりますと、主祭神は以下の4柱。

・第1本宮 底筒男命
・第2本宮 中筒男命
・第3本宮 表筒男命
・第4本宮 息長足姫命(神功皇后)

住吉三神をお祀りする第1から3の本宮が、東西方向に一列に並び、神功皇后を祀る第4本宮が、第3本宮の南側に寄り添うように鎮座するという独特の配置。

・第3本宮前から

住吉三神は、記紀神話の中で、伊弉諾尊が黄泉の国から逃れて来た後、ケガレを清めるために”筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原”で禊を行った時に、綿津見三神と共に生まれた神とされています。正直、わかりにくいですね。また、場所も北九州なのか南九州なのか、いろんな解釈があります。(なお、”筒”の意味については、博多の住吉神社の記事で諸説を記載しました)

この地への鎮座は、西暦211年に神功皇后によると、神社は述べています。新羅遠征に勝利した後、近畿へ東征の途中で、住吉大神の神託によって、この地に鎮斎されたと説明しています。

・第4本宮拝殿



「神功皇后の謎を解く」で河村哲夫氏は、高句麗の好太王の業績を称える為に5世紀に建てられた、広開土王碑の記載に信憑性が有りとし、”百済・〇〇・新羅を破って、臣民としてしまった”391年の前後に、神功皇后の新羅遠征が行われただろう、とされています。そうすると、4世紀末が大社の創建時期でしょうか。

・第1本宮拝殿

日本書紀では、皇后が近畿に東征され明石海峡にさしかかったあたりで、船がグルグル回って進まなくなったので、武庫の港に立ち寄り祭祀を行った、とあります。その時、4番目に降りてこられたのが住吉三神で、”わが和魂を大津の渟名倉の長峡におらせるべき”と告げたとなっています。実はこの候補地として、住吉大社の大阪市住吉区と、もう一つ、神戸市東灘区住吉の本住吉神社が挙がっているのです。

河村氏は、この時はその地から船が進められるよう祭祀を行ったのであり、住吉三神を祀るためではないとの考えから、この時に神宮皇后が三神を祀ったのは、神戸の本住吉神社だと主張されます。そして、その後仁徳天皇の時代に、墨之江の津が土木工事で整備された際に、海の安全を司る住吉大社を創建した可能性が高い、と結論付けられています。なるほど、という気がします。

・第2本宮本殿を横から



本殿は、「住吉造」と名づけられ、全て国宝。桧皮葺(ひわだぶき)で直線的な妻入式切妻造(つまいりしききりつまづくり)の屋根を持ちます。室内は外陣(げじん)と内陣(ないじん)の二間に、正面から見て前後に分かれています。

・本殿背後より。左は第4本宮



東出雲王国伝承によると、住吉三神と神功皇后の宮が左右に並ぶのは、夫婦神の形だそうです。息長帯姫の最初の婿は、若帯彦だったと言います。九州から東征した王から2代後の大和王朝の大王でした。息長姫は若帯彦に新羅遠征を相談しますが、断られ疎遠になりました。その後、自分の軍を連れて九州に赴いた姫は、その地の豪族、中津彦王と出会います。この御方にも遠征の協力を要請しましたが、断られました。ただ、中津彦は姫をたいそう気に入り引き留めたので、息長姫は岡の宮から先に進めなかったと言います。それが、日本書紀の"船がなかなか西へ進まなかった"表現になっているらしいです。そして、いったん豊浦宮に帰ったとのこと。

続いて息長姫が相談したのが、当時、日向国にいた武内宿祢の子孫で、後の葛城氏に繋がっていく御方でした。姫と意気投合され、住まいも共にしました。子を授かるのも自然な事でしょう。お二方は新羅遠征を成功され、その後、近畿に戻って先の東征王朝の残党を一掃、新たな大和王朝の立ち上げを目指す事になります。或いは、古代の習慣により、若帯彦大王亡き後の皇太后として女系で繋いだという形になるのかもしれません。(参考文献:「お伽噺とモデル」「出雲と蘇我王国」)

住吉大社の第一本宮に収められているという「住吉神代記」という巻物に、"皇后、住吉大神と密事あり、俗に夫婦の密事を通はす"との記述が
存在する事がスキャンダラスに語られることが有りますが、これは広く知られる記紀の記述を前提として、史実をほのめかそうとしただけなのかもしれません。


社殿以外の、興味深い建物や文化財に触れられてませんので、回を改めてアップしたいと思います。


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