鎮守の森がそろそろ近づいてきたくらいの道端で、゛よそでは手に入りにくい御守゛と書かれた年季の入った看板がまず目に入り、さらに鎮守の森の道路沿いにも同じ文言の看板(下写真)で再三PRされます。参拝した時は残念ながら授与所は閉まっていたのですが、そのPR通り沢山の種類のお守りが取りそろえられてる事で有名な神社です。境内は2694坪とかなり広く、高樹の御由緒のある社叢が鬱蒼と茂っていて高石市の数少ない自然保護樹林に指定されています。
・神社北側の通りからの社叢「霞の森」と看板
【ご祭神・ご由緒】
現在のご祭神は、主祭神が天児屋根命。相殿神に、誉田別命、菅原道真、大歳神、壺大神。当社は通称「天神社」ともいわれるようですが、これは菅原道真公を祀ったからではなく、当社の日神祭祀からそう呼ばれたのだろうと、「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏が書かれています。「泉州志」に、道真公が祀られたのは1679年の増祇によるとあり、「和泉名所図会」にも゛殿木氏の祖神、今、天神と称す゛と書かれています。
・鳥居をくぐって境内に入ると、祓岩がお出迎え
この地は、「古事記」の仁徳天皇条に記事があります。゛この御世に、免寸河の西に一つの高樹有りき。その樹の影、旦日(あさひ)に当たれば、淡道島におよび、夕日に当たれば、高安山を超えき。故、この樹を切りて船を作りしに、甚早く行く船なりき゛ここでの「免寸河」を、中村啓信氏「古事記」(角川ソフィア文庫)は「兎寸(ウサキ)」としていますが、過去には武田祐吉氏が「免寸(ウキ)」、次田潤氏、神田秀夫氏、太田善磨氏、西宮一民氏、土橋寛氏、青木和夫氏、小林芳規氏、倉野憲司氏らは「免寸(トノキ)」と訓でたようです。「トノキ」とするのは、この河を等乃伎神社の横を流れていた川と考えての事で、大和氏はこの説で論考を進めておられます。
上記の「古事記」の伝承は、その後に続く話に、船が淡路島から聖水を運んだとあるので、淡路の海人が伝えたとするのが通説です。一方、「日本書紀」の応神紀にも同様の話があり、最後に船が武庫水門の失火で焼け、新羅王が猪名部の始祖を送ってくる顛末になっています。土橋寛氏は、「古事記」やこの「書紀」の所伝には、「後漢書」の影響も有る事から新羅系帰化人が関与していると考えられ、大和氏は猪名部だと特定されています。
・境内の人が入れるエリアのはこのくらいで、ほとんど社叢が占めています
【祭祀氏族・神階】
「新撰姓氏録」の和泉国神別に殿来氏が載り、天児屋根の後とされています。「続日本紀」によると752年には、中臣殿来連竹田亮に外従五位下を授けられています。1774年の石燈籠や、社号標、扁額も「殿来」表記になっていますが、「延喜式」神名帳が「等乃伎」なのに「殿来」と記すのは、殿来連の祖、天児屋根命をご祭神とするからだろう、と大和氏は考えられていました。
・拝殿。七間社入母屋造り。社殿は昭和62年の造営
【鎮座地】
鎮座地の旧称はかつては泉北郡取石村富木で、明治初年には和泉国大鳥郡富木村字神ノ前でした。今もJR阪和線富木駅があります。
「トノキ」訓との関係で、大和岩雄氏は上記の文章の中で水谷慶一氏の説を紹介します。水谷氏は「トキ」と訓み「都祈」に関係すると考えて、「トキ野」が訛ったのがトガ野つまり都祈野、闘鶏野であり、坐摩神社の旧地、天満橋南詰の地域だと考えます。以前、天照大神高座神社の記事で記載しましたように、本来の坐摩神社の闘鶏野から冬至の日の出方向に有るのが高安山でしたが、この等乃伎神社からこの山の見える方向は夏至の日の出方向になるのです。坐摩神社の旧地は難波王朝の聖地という考えがありますが、等乃伎神社も共に太陽祭祀の重要な場所であったと推定する説があるのです。
・本殿。三間社流造で拝殿と同時期の造営
【蛇の伝承】
「播磨国風土記」讃客郡中川里の条に、天智天皇の御世、そこの丸部具(ワニベノソナフ)と言う人が、河内国(後に和泉国に分かれる)免寸村の人がもっていた剣を買ったところ、その家の人が皆滅んでしまい、その剣を鍛人が焼いたところ伸びちじみして蛇のようだった、という話があるそうです。秋本吉郎氏は免寸村を当社地にあてています。
大元出版の東出雲王国伝承に馴染んだ身としては、『蛇を見れば出雲と思え』という思考が染みついていて、免寸村に出雲人がいた事を示唆してるのでは?などという思いが沸きます。北2キロの位置には出雲ゆかりの大社造を発展させた古い社殿形式・大鳥造の本殿を持つ大鳥大社(こちらも祭祀氏族は中臣系)が有りますし、少し離れますが西南6キロの位置には東出雲王家・富(向)氏の事代主命の子孫にあたる太田田根子がいたと伝わる陶荒田神社があります。等乃伎神社のすぐそばの日部神社に関わるとされる日下部首も出雲系だとする話があります。さらに、当地の旧称が富木村で、今も富木の地名が残っているのです。
・摂社の宇賀之御魂神。瓦葺の一間社春日造
【和泉の長氏】
「和州五郡神社神名帳大略注解」に引用される「十市県主系図」に、事代主神から鴨主命(天日方命)、そして建飯勝命と続く系譜の次に武甕槌命と言う人がいて、゛大倭長柄首、鰐児臣、和泉長公等遠祖゛だと書かれています。これは「新撰姓氏録」の記述とも合っているようです。東出雲伝承は、この武甕槌命がほんとうに実在したタケミカヅチであり、建飯勝命から続く系譜が出雲王家富氏の分家登美氏であり、磯城県主の家系だと主張します。なので、「十市県主系図」は出雲系登美氏の子孫がこの和泉の地に入っていた事を示していると見えます。「日本古代氏族辞典」で佐伯有清氏は、この公の長氏は紀伊国那賀郡那賀郷の豪族としつつ、「姓氏録」の記述から和泉国にも住んだと認めています。
【富木】
ということで、この地が摂津三島の゛富田゛のように、東出雲王国富氏の領地だったのでは、と期待したいのですが、「角川日本地名大辞典」によると、この地の奈良期から平安期の地名は、「播磨国風土記」の記述から゛免寸゛であり、室町期から゛殿木゛表記が見られるようになって、゛富木゛表記は江戸期からだと説明されています。高槻市の゛富田゛は平安期応和元年が初出であり古くから〝富゛表記らしいですが、富木は同じようにはいかないようです。江戸時代に゛富゛表記と変えた理由が知りたいですね。なお、大元出版本で和泉地域についての伝承は、陶邑に太田田根子(この御方も登美氏系)がいた話のみだと記憶しています。
・入口鳥居の正面にある、地域の地車の車庫。「富木」名が誇らしげです
【紀伊国名草の高樹説話】
話は変わりますが、「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」でなかひらまい氏が、記紀の高樹説話と似た民話が南海和歌山市駅近くの「鷺の森」にあると書きます。大きなナギの木があり、朝日の影は淡路島まで届き、夕日の影は吉野山まで届いて、日があたらないので百姓が困り天子様に願うと、都から役人がきて苦心して切ってくれた、と言う話です。さらに同様な民話が大分県にもあり、天に届くほどの楠が、朝日の影は英彦山をかくし、夕日の影は由布岳を覆うので、作物が育たなかったが、巨人が来てくれて苦心して切ってくれたという、大筋では同じ話です。なかひら氏は、これらの民話は樹木(楠)に対する畏敬の念を表し、巨人や天子様は「人智を超えた力」の象徴だと考えられます。
・授与所。閉まってましたが、沢山のサンプルが吊るされていました
なかひら氏の書では、古代先住の名草住民が紀元前4300年に南九州から紀伊に移住してきた人々で、その流れで九州の楠信仰が伝わってきた可能性を語られます。間の瀬戸内沿いには楠を祀る神社が多いというのです。また、名草住民は紀元前の時期に紀伊の地で出雲人とも融合したと云います。そうすると、和歌山や大分の民話では最終的に権力者が高樹を切る顛末になってたりするので、記紀の高樹説話は名草人や出雲人らの先住民を従えていった大和王権の力を示す象徴的な話にして収録されたのでは、という気がしてきます。
【紀伊名草伝承と出雲伝承】
上記のなかひら氏の出雲人の話の一部は、大元出版本と、吉田大洋氏の「謎の出雲帝国」も参照されています。斉木雲州氏によれば、吉田大洋氏の書も斎木氏の父・富当雄氏の話を聞いて、消化不良気味に書かれた本だとしている(「出雲と蘇我王国」)ので、いずれにせよ元ネタは東出雲伝承です。なかひら氏の語る年代観は出雲伝承より古いのですが、そこは一旦目をつぶると、名草人と融合した出雲人とは登美氏の後裔の長氏だったのではないか、という思いが湧きます。今まで弥生時代中期に、葛城地域の出雲人が河内、和泉方面へ進出した事を想像していましたが、紀伊方面への進出も有り、さらに北上したのかもしれない、とも考えておくべきと思いました。
(参考文献:等乃伎神社ご由緒掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)