摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大屋都姫神社(和歌山市宇田森)~紀伊の地にひっそり佇む、素戔嗚命の姫君~

2020年02月08日 | 和歌山・紀伊

 

JR紀伊線の、和歌山駅から3駅大阪側にある紀伊駅より、徒歩で20分くらい歩いたところにある、「延喜式」神名帳にも”紀伊国名草郡大屋都比売命、名神大月次新嘗”とある式内社です。ご祭神は、中央の主祭神が大屋都姫命、向かって右の宮に五十猛命、そして向かって左の宮に都麻都姫命がお祀りされています。「三代実録」によれば、貞観元年(859年)に従四位の神階を授けられたようです。その後、従一位となった記事も有るようですが、正しいかどうかわからないようです。

 

・社殿正面でなく、横から境内に入ります

 

主祭神の大屋都姫を始めとするこられ三柱の神々は、日本書紀の神代上の八岐大蛇のところ、第5の一書に登場し、”この素戔嗚命の子を名付けて五十猛命という。妹の大屋津姫命。次に抓都姫命。この三柱がよく種子をまいた。紀伊国にお祀りしてある”と説明されています。その前の第4の一書では、”はじめ五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。けれども韓地に植えないで、すべて持ち帰って、筑紫からはじめて、大八州の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命を名づけて、有功の神とする。紀伊国においでになる大神はこの神である”とも記されています。

 

・拝殿正面

 

対して神社のご由緒には、大屋都姫は五十猛命を助け、大八州の国中に種を撒いた、としています。そして樹木の守護神となり、さらに、船・車・木具・薪・炭など木製品の守護神としても崇敬されているのです。なお、五十猛命は伊太祁曽神社に、そして抓都姫命は都麻都比売神社(式内論社が三社有り)にも、それぞれ主祭神として祀られています。

 

・中央の本殿を望む

 

社伝によると、大屋都姫命ら三柱の神は日前神宮の地に鎮座していましたが、垂仁天皇の時期に伊太祁曽村に遷座。その後、「続日本紀」に記載されたように、大宝2年(702年)三神を分遷、大屋都姫命は北野村古宮に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座されたということです。この宇田森の地は、考古学上でも宇田森遺跡として知られ、昭和16年から平成の時代まで弥生時代の各種土器、竪穴式住居、そして現在は東京国立博物館に収蔵されている銅鐸等々が発掘され続けました。特に、櫛描文や凹線文などの模様で飾られる多様な形の弥生土器は、和歌山の弥生時代中期を代表するとされているようです。

 

・五十猛命を祀る伊太祁曽社がかろうじて見えます

 

東出雲王国伝承では、大屋都姫は”大屋姫”と記されています。素戔嗚命の子ではなく、大国主命の御子、味鋤高彦の娘だと云います。つまり、西出雲王家の御方です。島根県の大田市大屋町に大屋姫神社がある事からも、出雲の姫君だと理解したくなります。そして、実際には、゛素戔嗚命゛の御子であった゛五十猛命゛の妻だったとします。出雲伝承の主張によると、十猛命はアマ氏(海部氏、尾張氏)の始祖にもあたると主張しています。

大屋姫は、その後大和の葛城、そして晩年は紀伊国まで来た、と神社の氏子さんは語っていたそうです。その姫に同行したのは五十猛命ではなく、五十猛命と大屋姫の御子であった高倉下であり、実際にこの紀伊国で種を撒いたのは高倉下だったと、伝承は説明します。高倉下が紀伊国造の始祖になる御方です。

ただ、出雲伝承は、高倉下が大屋都姫神社を建てた、と書いていましたが、上記ご由緒の分祀や遷座の変遷とどう整合するのでしょうか。日前宮の地が高倉下と大屋姫が最初に来た地なのか。この宇田森には弥生時代中期の発掘成果もあるので、紀元前2世紀頃に高倉下達がこの地に来ていた、というのもロマンがあります。。そしてその後、その子孫が九州東征勢力を最初に迎え撃つことになるらしいです。


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