(伊勢神宮と鹿島神宮、そして多氏と中臣・藤原氏との関係の話さらに摂社ヒメミコ神社などについてはパート2にまとめました)
「古事記」を編纂したことで有名な太安万侶などを輩出した有力豪族、多氏ゆかりの神社として有名な多神社です。実際に訪れてみて、大和盆地のど真ん中、その立地の素晴らしさにやはり強く感銘を受けてしまいました。笠縫駅から20分程歩きましたが、駐車場がちゃんと隣接してました。写真を一番下に付けておきます。
・堂々たる社叢がまず見えてきます
【ご由緒】
多氏の始祖、神八井耳命については、記紀両方に説明があります。この御方は神武天皇の長男。皇位を簒奪しようとした別腹の皇子、多岐志耳を襲撃しようとしましたが、寝ている多岐志耳を目の前にして手足がわななき殺す事が出来ませんでした。とっさに同行の弟、神沼河耳命が武器を取り多岐志耳を殺します。神八井耳命は弟に皇位を継がせ、一方自分は祭祀の人となり天皇を助ける忌人となった、という話です。神八井耳命の子孫として、多臣の他、阿蘇君、都祁直、伊予国造、常道仲国造、伊勢舟木直等々多くの氏族名が羅列されています。
・入口。とても奥行きがあります。なお一の鳥居は、ずっと遠くにありここからは見えません
【ご祭神】
現在のご祭神は、上の説話にちなんだ神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命(綏靖天皇)・姫御神(玉依姫)となっていますが、「延喜式」神名帳では”多坐弥志理津彦神社二坐"とあり、これについて「特選神名牒」や「式内社調査報告」では、神八井耳命と姫君としているのです。ただ、どうもこの二坐に天皇やその皇子を比定するのは明治時代以降のことで、平安時代の文献に神八井耳命を祀るとは全く記されていないのです。
・拝殿向かって左は社務所。閉まってました
【平安時代以降のご祭神】
平安時代の1149年に多神宮禰宜らが国司に提出した「多神宮注進状」や、その裏書を書くときに参考にした社伝「社司多神命秘伝」に二坐が明記されています。
・珍子賢津日霊神尊:天忍穂耳命(河内国春日部座宇豆皇子神社同体異名)
・天祖賢津日孁神尊:天疎向津姫命(春日部座天照大神之社同体異名)
上記の河内国春日部座天照大神之社は、現在の大阪府八尾市に鎮座する天照大神高座神社です。岩戸神社と共に鎮座しています。「新抄格勅符抄」には春日部神、「三代実録」では春日戸神とあり、多神社の旧名の春日宮と通じる名前に見えます。そして、向津姫命は天照大神の荒魂の事になりますね。
・拝殿向かって右側にこんもりとした社叢があります。
【「外宮」だった目原坐高御魂神社】
それでは、なぜ現在は四座になってるのでしょうか。「延喜式」神名帳にある”目原坐高御魂神社二座”を「多神宮注進状」では多神社の外宮と記しますが、江戸時代には所在不明になっているので、この二座を多神社に合祀して四座になったのだろう、と谷川健一氏編「日本の神々 大和」で大和岩雄氏が推測されてます。「多神宮注進状」記載の、その外宮のご祭神が以下の二柱です。
・天神高御産巣日尊
・皇妃𣑥幡千々媛命
この目原神社は、「日本書紀」の顕宗紀に、対馬下県直が磐余の田に高皇産霊を祭った社にあたると、大和氏ら多くの研究者は考えられています。
・拝殿
・新式の拝殿奥に、古風な本殿が鎮座します
【多神社と大神神社】
元の二座については、上記によると夫婦神でなく母子神と見られていた事になります。大和氏の言われる、日の御子とその母で、す。母とは、日光に感情して日の御子を生む大日孁貴(おおひるめのむち)であり、これは天照大神の別名です。天照大神は「倭姫命世記」では元々”御室嶺上宮”におられたと説明されており、つまり多神社は三輪山を真東に見て山頂の日神を祭る多氏の神社という事になるのです。そしてこれは、三輪山自体を祀る大神氏の大神神社の神とは祭祀の対象が違い、「古事記」ではこれらをはっきり区別していると大和岩雄氏は云います。
・春日造が並ぶ本殿
伊勢国朝明郡には式内社として、明らかに多神社に関わる太神社と、舟木明神と呼ばれる耳常神社(祭神神八井耳命)があります。伊勢舟木直は神八井耳命の後で、伊勢神宮の祭祀氏族である宇治土公と重なります。敏達帝の時期に都に日祀部が設置され日神が祀られるようになりますが、筑紫申真氏によれば、これは他田坐天照御魂の系統の元来の天照(アマテル)神であり、その頃にこの神が多氏と共に伊勢へ移動したと考えられるのです。
(参考文献:谷川健一編「日本の神々」大和 大和岩雄氏)
・庇柱と身舎柱を繋ぐ虹梁の上に板を設けて、そこで垂木の方向を変える方式。鎌倉時代からとの事。
【伝承】
大元出版本の「お伽話とモデル」では、多岐志耳の殺害の話が史実であり、これを神話にしたのが”天若彦の戻り矢”神話だとしており興味深いです。つまり多岐志耳が天若彦に喩えられたという事です。神話の舞台は出雲ですが、出雲の古老は神話のように出雲王国に人が送り込まれたような史実は全くなかった、と断言しているらしく、あくまで大和で起きた話だと書かれています。そして、多岐志耳は西出雲王国の神門臣氏の多岐津彦だったとします。もちろん、父は神八井耳命と同じではないとの主張になります。
・社叢の隙間から、真東方向に三輪山が見えます。昔はここに鳥居があったのでしょうか
しかし、新刊の「出雲王国とヤマト政権」では、”天若彦の戻り矢”神話は、3世紀の大和で九州からの東征軍に海部氏が負けた話を喩えたものだと云うのです。そして天若彦は海部氏の武葉槌(鳥取県の倭文神社のご祭神)を喩えており、この御方が出雲王国で神門臣氏から姫を与えられた史実があって、それを下敷きに神話に使っていると説明しています。これら2つの書は著者が違うので、それぞれ違うソースの伝承が採用されたと捉えるしかありませんが、このような違いの根拠を確認・議論できないことが、伝承話の少し悩ましい処になりますね。
・境内西側にある広い駐車場