2019年に百舌鳥古墳群とともに世界文化遺産となった、古市古墳群の盟主陵墓である誉田御廟山古墳(いわゆる応神天皇陵)の後円部に接して鎮座し、古くから御陵祭祀を司り続けた宗廟です。ご祭神は誉田御廟山古墳の埋葬者とされる品陀別(ほんだわけ)命こと応神天皇、そして仲哀天皇、神功皇后のご両親を主祭神とし、住吉三神を合祀します。陵墓の祭祀が付属する神社に発展した、全国でも極めて稀な神社といわれます。
・南大門と神社石標。左に見えるのは、秋祭り準備中の地域の地車。(☝見出し写真は東門側)
【ご由緒】
社伝の「誉田宗廟縁起」によれば、欽明天皇がこの誉田陵に参拝した折(559年とされる)に、新羅に滅ぼされた任那日本府の再興実現を祈念して、後円部の頂上に神廟式の小社殿を造営したのが当社の始まりで、以後聖徳太子、僧行基、僧空海、菅原道真らそうそうたる人達が参詣したと伝わります。ただ、神社としての始まりは、平安中期、1051年に冷泉天皇の勅命により前九年の役の早期平定を祈念して、誉田陵の南の現在地に新社殿を造営した事でした。したがって、式外社です。
・ゆったりした境内と長大な割拝殿
【放生橋】
文久の御陵修築の時期まで、後円部の後ろ側より濠を渡って後円部の階段を登り、頂上部の六角形の建物に参拝できるようになっていました。鎌倉末期に築造の放生橋が現存しており、近年まで例祭の渡御神事では神輿がこの橋を渡り、後円部南側の中堤まで入って祭祀を行っていました。今はすぐ横の新しい橋を渡っています。なお、通常は橋の所から立ち入り禁止です。応神八幡社は全国に祀られていますが、それは上記の当社社殿創建の後、平安期後半以降のことです。
・拝所。社務所もあります。
【中世以降歴史】
鎌倉初期の1196年に、源頼朝が社殿及び神宮寺の長野山護国寺の伽藍を再営し、国宝となる螺鈿金銅飾りの神輿や長刀・刀剣・神馬を奉納し、以降、北条氏や足利氏もこれに倣います。南北朝時代から戦国時代末期にかけては誉田一族によって守護され、兵火を受けるたびに再建されています。室町中期の1433年、足利義教が高野山を参詣した際に当社を訪れ、誉田御廟縁起三巻、神功皇后縁起二巻が痛んでいるのを見て、再製を発願。1435年に複製五巻が完成し神社に奉納されました。その後も織田信長の河内攻めでまたまた焼失。1606年に今度は豊臣秀頼が社殿の再建を決断し普請奉行に片桐且元を任命して着工。完成直前に豊臣氏が滅亡してしまったので、最後の仕上げは徳川幕府が行いました。これが現在の社殿となるわけです。
・中門と奥の本殿。屋根は新しい感じでした
【社殿、境内】
その本殿は、東面する三間社、千鳥破風造で80年代時点では檜皮葺だったようですが、現在は銅板葺に新しくなっていました。「日本の神々 河内」で古田実氏は重要文化財の価値があるとされますが、未指定です。拝殿は間口十一間、奥行き三間の割拝殿。こちらも大阪府下でも類例がなく価値がある建造物だと古田氏は書かれていますが、重文にはなっていません。境内南にある南大門は、もともとは神宮寺長野山護国寺のものでしたが、明治初年の神仏分離のあおりで廃寺となり、門だけが残りました。昭和35年に欽明天皇勅願社殿造営千四百年祭を行った時、これを記念して国から補助金130万円を受け、有志からの浄財と合わせた資金で誉田八幡宝殿を造営しました。今も皇室は繋がりを感じているというとでしょうか。
・当宗(まさむね)社。朝鮮の楽浪郡から渡来した当宗忌寸の祖をまつる。五百城入彦とは無関係のよう
・安産社。後冷泉天皇が神功皇后にならい、当社の槐(えんじゅ)の木で安産を祈願
【誉田御廟山古墳】
歴史学者・喜田貞吉氏による大正3~4年の論文で、誉田御廟山古墳は゛年代の標準たるべき古墳墓゛として、天武・持統陵、聖徳太子陵、安閑陵、仁徳陵、箸墓と共に挙げられ、4世紀末から5世紀初頭の築造として、これ以降古墳編年の基準となってました。被葬者も、上記した平安時代以降の祭祀の歴史から、正しいと考えられてきたのです。このような古い伝承をもつ古墳は全国でも他にないと、「天皇陵の謎」で矢澤高太郎氏が書かれています。ただ現在は、゛考古学的な決め手を欠く゛と大半の陵墓と同様に見られています。
・放生橋。現在の祭では、右に見える新しい橋で渡るそう
その後の研究による最近の見方として、「天皇陵古墳を歩く」で元橿原考古学研究所の今尾文昭氏は、誉田陵は5世紀前半の築造であり、私見と断りつつ、被葬者に和の五王の中ほどの人物を想定されます。そして、それに先立つ時期の仲津姫陵や履中陵に゛讃゛との関りを考えられていました。2011年の立ち入り観察にも参加され、中堤を歩いて、後円部山頂へ上がる幅3m程の参道の痕跡や、等高線でも見られる墳丘の崩落した内濠を見られたとの事です。
・誉田御廟山古墳西側。「外濠外提」の部分に遊歩道があります。見えてるのは内堤
今尾氏が不思議に思われているのが、くびれ部東に接する二ツ塚古墳です。コチラが先で、羽曳野丘陵が西側に傾斜した最も良い場所にあり、誉田陵はその辺りの内濠を歪めて避けた設計をしてる事が、観察でも確認されたようです。この巨大古墳の被葬者が誰に配慮するのか?と興味を持たれていました。というのも、飛鳥時代になると、先にある小古墳は潰されるようになっているからです。
・「惠我藻伏崗陵」拝所。巨大な゛山゛です
【伝承】
東出雲王国伝承では、応神天皇は九州豊国・宇(菟)佐氏の血を引く御方で、この誉田陵に埋葬されたと説明されます。そして、宇佐八幡信仰は古代から存在したので、後円部に宇佐神宮にちなんで八幡宮を建てたとします。ただ、古墳造営時に建てたのか、上記の欽明帝勅願の事を言ってるのか、はっきり書いていません。一方、宇佐氏の子孫・宇佐公康氏の語る古伝でも、応神帝が宇佐家の子孫であるところは一致します。
・古墳東より。右が二ツ塚古墳で、左奥が誉田御廟山古墳
富士林雅樹氏は「仁徳や若タケル大君」で、「古事記」にかかれたこの時期の大君の干支の没年は出雲の旧家の伝承と一致しているとし、中国の「梁書」「宋書」などによる゛和の五王゛の年代と突き合わせてこの時期の歴史を復元されています。それだとホムタ王の没年は394年になり、五世紀前半という誉田御廟山古墳の築造年代と随分と離れるように見えます。ただ、その本で富士林氏は、巨大古墳は長い築造期間の中で戦争で中断されたり、工期が延長されたり、また優先順位が変わったりするので、被葬者推定は慎重にすべき、とも書かれています。出雲の伝承によるのか、著者の考えなのかは記載がないのですが、被葬者の比定は相当に難易度が高い事を心に留めておくのがよさそうです。
(参考文献:誉田八幡宮公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 河内」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)