
<或る書について>
宮崎駿の「深み」へ
-村瀬学・著 平凡社新書―
この著者との出会いはもうずいぶん旧く、20年余りも前のことだ。
処女評論「初期心的現象の世界」、続いての「理解のおくれの本質」(共に大和書房)を読んだが、乳児から幼児へかけての心的現象世界を読み解いて、些か観念的ではあろうが、その構造的な把握の仕方に思わず膝を叩いたものだ。どちらも私にとっては心に響いた書として鮮やかに記憶に残る。
当時、私が耽っていた吉本隆明の「共同幻想論」(角川文庫)や「心的現象論序説」(角川文庫)、或は三浦つとむの「認識と言語の理論-三部作」(勁草書房)などと、相呼応共鳴しあう世界だった。
さて、その著者が、今、話題のジブリ・アニメ「ハウルの動く城」の宮崎駿の世界を、どのような視点から読み解いてくれるのか。子どもの心の世界を読み解くに独自の地平を切り開いて見せてくれた著者だから、期待に違うはずもないだろう。
本書の発刊は昨年10月、したがって「ハウルの動く城」は未だ公開されていないから、宮崎駿の最新作そのものには触れ得ない訳だが、アニメの原作となった「魔法使いハウルと火の悪魔」に基づきつつ、本書の論理はその最新作の世界へも充分届き得ていると見られる。
本書の構成はまず
手塚治の「ジャングル大帝」と宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の世界を比較する。
そのうえで、
「風の谷のナウシカ」論
「天空の城ラピュタ」論
「となりのトトロ」論
「魔女の宅急便」論
「紅の豚」論
「もののけ姫」論
「千と千尋の神隠し」論
と各作品を論じてゆき、番外として
まだ見ぬ新作「ハウルの動く城」へと言及していく。
最後に、まとめとして、
宮崎駿の世界を、「有機体的世界の不思議さ」として概括する。
さしあたり、展開されている論のキーワードをいくつかを順に紹介しておこう。
<腐海>-「ジャングル」から「腐海」へ
腐海の主―<玉蟲>の造型性
-無数の黄色い触手の意味―千手観音への連想-癒し、治療としての触手
<火>と<風>を使う使者、としてのナウシカ
-火=技術を使う人 風=情報を伝える人
土、つまり腐葉土、<腐った世界>を抱え込むことなしに、
生命は生き延びられない、ということ。
<反転>の仕組み
容姿-有形の領域―皮・衣・外見 と 内臓―無形の領域―腐海・便・溶・菌
食べる-消化―排泄の過程
食べられ、溶かされ、無形となり、それは有形のものになるべく使われる、
すなわち有形へと反転する
<ゆ(湯)=喩>の世界へ
千と千尋の、ゆ(湯=喩)のあふれかえる-喩の森―の世界
二つの食 <物を食べる>ことと、<喩を食べる>こと
ハウルとは風の使者=その魔法は生物を育てる<総合>の力
ハウルと敵対する荒地の魔女は<分離>の力
生物は<総合>だが、それは分離され、分解され、腐敗することで、次の生物を育む。
<総合>と<分離>の、どちらが大事というわけにはいかないこと。
<食べる>こと、<腐る>こと、<産む>こと
最終章のまとめとして、
<有機体的世界観>としての宮崎駿の世界を、さらに要約的に抜粋すると
一昔前に「ジャングル」と呼ばれていたものには、「植民地主義」の視線で批判されるものがたくさん含まれていました。それでも私はそういう尺度だけで葬り去れないものがこの「ジャングル」というイメージにはあったことを指摘してきました。この「ジャングル」というイメージには、無数の生命がうごめく原野のイメージが同時に託されていたからです。
近代から現代へは、アフリカやインドの目に見える密林としてのジャングルから、目に見えない微生物のジャングルへの関心の移行が始まった時代でした。
そしてこのうごめく目に見えないジャングルが、宮崎駿さんの斬新な発想により、新たに「腐海」というイメージで再発見されることになった。
しかし宮崎さんが斬新だったのは、この新しいジャングルに「腐る」とか「菌」というイメージを付け加えたことでした。
このイメージが加わって、新しいジャングル=腐海は、ただの小さな生き物のジャングルというのではなく、「腐らせる」ことで新たな生き物を生み出す巨大な有機体の仕組みのようなものとして描かれてゆくことになりました。
おそらく、そこが宮崎さんの切り開いたもっとも独創的な地平だったと思われます。
「腐る」とか「菌」とかいうイメージで、宮崎さんが考えようとしていたことは、そうした多くの生き物が消えて目に見えなくなるところで、実は次の生き物が準備されてきたのだという、生命の持つ壮大な循環の仕組みなのかもしれません。
「腐海」は「表」には現れない不思議な生態系でした。それが「表」に現れる時は、大変なことが起こる時でした。この「裏の生態系」とも呼びうる「腐海」の特徴は、「菌」によって生き物を分解するものでした。
もし「表」を「文化」としたら、「裏」はその「廃墟」ということができるかもしれません。しかし、多くの文化は実はすでに「廃墟」つまり「過去」のものとなっているものなのです。私たちが「文化」に触れるというのは、実はこの「廃墟」になったものを通して、その少しのものを手がかりにして、さまざまな組み建て直しを始めることだったのです。
「文化」の創造が、そういう廃墟の組み立て直しとしてあるのだとしたら、それは「食べる」ということにも当てはまります。文化の吸収も文化を食べることなのですから。そういうふうに見られる「食べる」という出来事は、形あるものをかみ砕くことです。そうすることで食べたものは崩壊し、吸収されるものになり、栄養物に転化されてゆきます。形あるものは、砕かれ、溶かされ、はじめて「吸収されるもの」になるからです。
こうして著者は、有機体的世界観としての宮崎駿の「深み」を
子どもたちの、子どもとしての心性に、子どもらしさというものに、
「小さな創造主」として生きることを可能にする子どもの想像力の世界を、
通奏低音として見出だす。
「子ども」を生きるとは、じつはこういう独特の「深み」を生きることだったのだ、と。