山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

枯木に鴉が、お正月もすみました

2005-01-19 22:05:20 | 文化・芸術
1999081000011-1

<エコログのなかのある対話から>

ブログをはじめたのは昨年の九月半ば、
早くもというべきか、ようやくというべきか、四ヶ月が経った。
それは少なからず、さまざま出会いの場であり、
私にとって貴重な経験そのものとなりつつある。
ある記事にコメントを記せば、レスが返される。
その応答が、通常書く記事よりも内容のあるものに高まることも屡々ある。
今回は、そういった応答・対話から一編を選んで、
勿論、相手の了解も得たうえでだが、ここに掲載する。

<四方館>

 縁と云うものが、ほんとはどういうものなのか、よくわからないのです。
もし、親鸞が云う「はからい」のようなものだとしたら、
これは人の知を超えたものでしょうから、これに拘泥すること自体が、
苦を生みつづける連鎖から逃れられないことになるのでしょうね。
とはいうものの、人は神や仏になれる訳もなく、
千日回峰をした阿闍梨のような偉い坊さんでも死苦を乗り越えられなかった、
と云う話もあるくらいだから、
人知を超えたはからいと人ゆえの拘泥のなかで、
人それぞれに苦悩しつつ生きてゆかざるを得ませんよね。
ただ、絶対的に云えることは、
決して人は他者のためになぞ生きはしないし、生きられもしない、ということじゃないか、ということ。
そこをしっかと見切ったうえで、と云ってもそれがやはり現実にはできはしないのですが、
あくまでそこから人との関わりを観ようとするしかないのじゃないか、な。



<Y>

 四方館さん、はじめまして。いきなり素晴らしいコメントを、ありがとうございます。
一体どんな方なんでしょう、また今度訪問させて頂きます。

縁が実はよくわからない、素晴らしい真理ですね。親鸞、私大好きなのです。大学時代は親鸞関連の本をよく読んだものです。人知をこえた縁という「はからい」に拘泥すること自体が、苦を生み続ける連鎖から逃れられないことになる。

・・・これは、今までどなたも、言ってくれなかったことかもしれませんね。

それでも、この拘泥(こだわり)の中で、苦悩しつつ生きてゆくしかない。
けれども、人は他者のためになぞ生きはしない、生きられないと、絶対的に言える。


・・・ すごいです。ありがとうございます。最後におっしゃった、「人との関わりを観ようとする」ということ、「観る」まで行けたら、いいんですよね。そう思います。
特に、何百回書いても魂の呪縛から逃れられない、Sさんのことは、本当にその地点までいかないと苦しむばかりだと思います。

それこそ親鸞の思想の原点、絶対他力に頼ってでも、ですね。

ありがとうございます。またいらしてくださいね。