Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」
<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>
「狂句こがらしの巻」-10
いつはりのつらしと乳をしぼりすて
きえぬそとばにすごすごとなく 荷兮
次男曰く、虚を忘れるために実を棄てたが、その甲斐もなく新たな実が生まれた、と考えれば滑稽が現れる。卒塔婆は虚の最たるものだ。「きえぬ」という遣り方はそう伝えるための俳言の工夫で、その子は死んだのだと見定めた付には違いないが、「此の世はすべて虚仮にして実ならず、夢の如くまた幻の如しと、子を失ひて偽りの世をかなしむことに見たるは、衆解一致す。別に論無きなり」-露伴-と云っては身も蓋もない。むろん「きえぬ」の内容が夢の跡か、卒塔婆の墨色かなどというようなことは、考えたい人は勝手に考えればよいたぐいの想像で、連句解釈にとっては何の意味もない。
「乳をしぼりすてる」原因は、死別とはかぎらぬ。どのようにでも継げるだろう。荷兮が、わざわざ陰の極の句作りを以てしたのは、その原因を探って選択したと見ることはたやすいが、たぶんそうではあるまい。虚実の遊を重五の一句にとどめては、「乳をしぼりすて」る面白さが活きぬと考えたからだ。
ならば、句眼は「きえぬそとば」で、「すごすごとなく」は短句-七・七-の成行である。その辺の遣り様の見取が狂うと、「すごすごとなくというすごすごも実に良く利いた表現である。張りや力も全く崩れ抜けて、抜け殻のような気持の中に、悲しさばかりがいや増しに迫る感じは、この表現を他にしては求められまい」-能勢朝次-というような気分の拡張解釈が生まれてくる。
この種の読み方は、総じて諸家の全句注にわたって見られる。何度も云うようだが、表現の中心になる言葉の興が見えぬと云うことは、作るにせよ読むにせよ、連句を連句でなくする。
折口は「下手だ。ぎくしゃくとした句だ」、「面白味がわからぬ」と云い捨てている。
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