―表象の森― 伝承芸の型
奥村旭翠さんの筑前琵琶を初めて聴いてからすでに8年ほどを経ようとしているが、年に二度か三度、毎年のように聴いてきて、その弾き語りに耳慣れてしまった私には、このところどうしても一抹の不満を感じざるをえず、些かもどかしいような思いを抱いてきている。
昨日もまた一門の琵琶の会で聴いたのだが、その印象から自分なりに一つの結論めいたことをいえば、一昨年100歳の天寿を全うして逝去した山崎旭萃の場合には、明治末から大正期の筑前琵琶最盛期に修業したとはいえ、戦争を挟む昭和前半の冬の時代をくぐり、むしろ後半生に至って詩吟との融合を図るなど新生面を拓くといった試行を重ねたことを思えば、彼女にとって客観的な教科書-完全なる型-というものはなく、おのが感性を頼りに弾き語りの独自な世界を創りあげねばならなかった一面があったのではないかと想像しているのだが、その彼女のすでに晩年にさしかかった時期に師事した奥村旭翠は、筑前琵琶のあるべき教科書ともいうべきもの-語りと奏法の完全なる型-を思い描き、追い求めているのでなかろうかということであり、両者の生きた時代の違いとともに伝承芸の型に対する両者の姿勢に、微妙な、とはいえ無視できない、ズレがあるのではないかと思われてならないのだ。
たとえば歌舞伎なら、その伝承芸としての所作事や口跡の型は、それぞれ固有の肉体に宿っているとしかいいようがないだろう。ならばこうだああだといっても、なにがしかはその固有の肉体の刻印を帯びざるを得ないのだから、客観的な教科書-完全なる型-は存在し得ず、一定の公約数的なもの、もっと乱暴にいえば「あたり」のようなものともいえようか。
所作であれ口跡であれ、また唱法であれ奏法であれ、その型とは所詮約束事にすぎない。生きた肉体はその型に則りつつ芸の華を咲かせるもの。むろん小さな針の孔に細い糸を通すほどの精緻を極める型へのあくなき追究など要らぬではないかというつもりはさらさらない。ないが、おのれの感性を閉ざしてまで型に嵌め込むより、その型を破ってでも、逸脱してでも、おのが感性を解き放とうとすることも、また大切なことだろう。
むしろ伝承芸に生きようとする者にとって修業とは、時に型への執着と、時に型の破調へと、双方をたえず行きつ戻りつしながら、その芸が鍛えぬかれてゆくものであり、そうあってこそ固有の華がひらいてゆくものの筈だ。
奥村旭翠さんの現在-おそらくこの10年ほどの時期-は、自身の芸の錬磨と良き弟子を育てることが、表裏一体の作業として自覚しているのだろうと思われるが、その要請に対する過大な意識が客観的な教科書-完全なる型-への些か偏った傾斜となっているのではないか、とこれは門外漢の愚にもつかぬ杞憂にすぎないのかもしれないが‥‥。
<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>
「狂句こがらしの巻」-33
箕に鮗の魚をいたゞき
わがいのりあけがたの星孕むべく 荷兮
次男曰く、前句の人の性別を知らせるために「わが」と冠し、仔牛を子宝祈願に引き移して作っている。コノシロは鮗の和訓で、もともと神饌魚である。また厄除の呪としては、夜間、覚られぬように明の方角へ-恵方-へ埋める風習がある。
コノシロならぬ「あけがたの星」を頭上に頂いて神仏に祈らせたのは、右の理由によるが、「わがいのり太白の星孕むべく」とは、作りたくても、作れぬところが味噌である。金星は宵の明星でもある。加えて太白は李白の字-あざな-だ。重出はできぬが-先に「日東の李白」と遣っている-、玉のような子を生ませたい本音は、李白にあやかりたい荷兮自身の願でもあるとは、連衆は容易に気付いた筈だ。個々の四季発句を切り捨て、歌仙五巻のみを以て、貞享蕉風の旗を尾張に挙げた男なら、さもありなんと肯かせる述志の句である、と。
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