―世間虚仮― 昨日、今日
イヤ、驚いた。今朝、新聞を取り込む際、眼に飛び込んできた一面トップ。
すでに日本では’03年に最高裁で無罪が確定したロス疑惑の元被告三浦和義を、ロス市警が逮捕、の仰天ニュース。
25年の時効がある日本と、時効のないアメリカ、属人主義の日本と、属地主義のアメリカという司法制度の違いと、同じ先進国たる法治国家といえども彼我の差違が浮き彫りになる。
この関連記事を載せる三面の一隅に、一審有罪で獄中にあった三浦被告は、当時過熱した一連の報道関係に本人訴訟も含めなんと530件の名誉毀損やプライバシー侵害訴訟を起こし、ご当人にいわせればほぼ8割に勝訴した、と伝えるが、事件以来マスコミの好餌となりつつ執拗に逆襲することでこれと同衾していくというしたたかな生きざまを示してきた彼のことを、われ関せずとはいえ、あまり知り合いなんぞにはなりたくはない輩だとは思ってきたから、すでに日本で無罪の確定した者が、事件のあった彼の地アメリカで有罪となるといった、世にも珍しいことが仮にもこれから起こるとすれば、この成り行き果たしてどうなるか見逃せないところだろう。
昨日は、幼な児が生後6ヶ月より通い続けた保育園の「生活発見の会」-昔なら学芸会-とかで、卒園を間近に控えて最後となる催しなれば、本人も朝早くから起き出して母親とともに意気揚々とお出かけあそばした。
私はといえば少しのんびりと朝の時間を過ごして後追いながら出かけたのだが、会場はもう保護者たちで満杯の状況。
以前の彼女なら、いざ本番ともなると異常緊張気味になってよく出演すっぽかしを喰らわせたものだが、ピアノの発表会など他人の飯(?)も経験してきた所為か、舞台へ上がるたびに客席のなかの我々に笑顔のサインを送っては些かハイテンションで歌ったり演じたりに興じていた。ひとり娘の成長をものがたるこの姿には母親もちょっぴり安堵の体で感慨深げ。
さて本日の奥村旭翠一門の琵琶の会。
連合い殿の演目を聞き逃す訳にはいかぬから、幼な児を連れて12時過ぎには文楽劇場に着。出番が少々早まったと見えて劇場に入ったらまもなく「筑後川」拝聴となった。いわゆる戦記物だけに相性の問題もあろうし、さらには仕事の忙しさゆえの稽古不足もあろうゆえ、少々こなれ不足とみえた。5年.6年と積み上げてきて、いまが肝心の成長期に差しかかって、昨年から今年へと、この滞留は辛い。
わざわざお運びいただいた谷口豊子さんと高居千登勢さんの両名と連れ立って一旦外へ出て暫時気分転換の芸談義。
他には、新家旭桜と高橋旭妙、そして最後の奥村旭翠師を拝聴。
三味線の名取りでもあったという旭桜嬢、演奏技術においては他の追随を許さぬ達者だが、従来は綺麗にまとまりすぎる語りに難があった。節にのせるとはいえ語りは語り、そこには横溢する気力が見えねばならぬ。彼女はやっとそんな語り世界のとば口に差しかかってきたと見えた。演奏の技巧はともかく語りにおいては旭妙嬢に一日の長がある。艶があり味わいがある。そこは山崎旭萃の直門であった旭妙と奥村旭翠の弟子として出発した旭桜との違いなのかもしれぬ。
<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>
「狂句こがらしの巻」-32
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに
箕に鮗の魚をいたゞき 杜国
箕-み-に鮗-このしろ-の魚をいたゞき
次男曰く、暮しの習俗を付け出して巧みに場の見定めをしているが、賤魚を頭に載せてはこぶ、という目付にまず俳がある。わざわざ海辺らしい趣向をもとめたり、コノシロを持ち出したりしたところ、「敦盛」を思い泛べたのは芭蕉よりむしろ杜国だったかもしれぬ。コノシロは子の代に通う。生長祈願の呪として昔から知られた魚だ。
「とぶらふ」人を旅の琵琶法師から村人-女だろう-に見替え、牛塚にコノシロを供えに来たのは仔牛安産-生長-の祈願のためらしい、と覚らせる工夫は、「平家物語」とはまた別のあわれがある。中-芭蕉-を振分に遣って三句の情を一変させた趣向はわかるが、「巾に木槿をはさむ」「箕に鮗の魚をいたゞき」は同意にならぬか。「箕に鮗をのせる蜑-あま-の子」とでも作れば、あきらかに輪廻である。「‥‥いたゞき」と連用形留めにして、次句に持成をのこした分だけ、きわどいところで救われているようだ。
「去来抄」に、「蕉門に同巣・同竈-どうそう-といふあり。是は前に作りたる句のいまた-鋳股-入りて作する句也。たとへば、竿が長くて物につかゆると言ふを、刀の小尻に障子がさはる、或は杖がみじかくて地にとゞかぬと吟じかゆる也。同じ竈の句は手柄なし。されど、先より生憎-うまれ-したらん句は又格別なり」。云うところはこの場合と少し違うが、言葉の考え方は同じである、と。
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