山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

箕に鮗の魚をいたゞき

2008-02-24 22:25:38 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 昨日、今日

イヤ、驚いた。今朝、新聞を取り込む際、眼に飛び込んできた一面トップ。
すでに日本では’03年に最高裁で無罪が確定したロス疑惑の元被告三浦和義を、ロス市警が逮捕、の仰天ニュース。
25年の時効がある日本と、時効のないアメリカ、属人主義の日本と、属地主義のアメリカという司法制度の違いと、同じ先進国たる法治国家といえども彼我の差違が浮き彫りになる。
この関連記事を載せる三面の一隅に、一審有罪で獄中にあった三浦被告は、当時過熱した一連の報道関係に本人訴訟も含めなんと530件の名誉毀損やプライバシー侵害訴訟を起こし、ご当人にいわせればほぼ8割に勝訴した、と伝えるが、事件以来マスコミの好餌となりつつ執拗に逆襲することでこれと同衾していくというしたたかな生きざまを示してきた彼のことを、われ関せずとはいえ、あまり知り合いなんぞにはなりたくはない輩だとは思ってきたから、すでに日本で無罪の確定した者が、事件のあった彼の地アメリカで有罪となるといった、世にも珍しいことが仮にもこれから起こるとすれば、この成り行き果たしてどうなるか見逃せないところだろう。

昨日は、幼な児が生後6ヶ月より通い続けた保育園の「生活発見の会」-昔なら学芸会-とかで、卒園を間近に控えて最後となる催しなれば、本人も朝早くから起き出して母親とともに意気揚々とお出かけあそばした。
私はといえば少しのんびりと朝の時間を過ごして後追いながら出かけたのだが、会場はもう保護者たちで満杯の状況。
以前の彼女なら、いざ本番ともなると異常緊張気味になってよく出演すっぽかしを喰らわせたものだが、ピアノの発表会など他人の飯(?)も経験してきた所為か、舞台へ上がるたびに客席のなかの我々に笑顔のサインを送っては些かハイテンションで歌ったり演じたりに興じていた。ひとり娘の成長をものがたるこの姿には母親もちょっぴり安堵の体で感慨深げ。

さて本日の奥村旭翠一門の琵琶の会。
連合い殿の演目を聞き逃す訳にはいかぬから、幼な児を連れて12時過ぎには文楽劇場に着。出番が少々早まったと見えて劇場に入ったらまもなく「筑後川」拝聴となった。いわゆる戦記物だけに相性の問題もあろうし、さらには仕事の忙しさゆえの稽古不足もあろうゆえ、少々こなれ不足とみえた。5年.6年と積み上げてきて、いまが肝心の成長期に差しかかって、昨年から今年へと、この滞留は辛い。
わざわざお運びいただいた谷口豊子さんと高居千登勢さんの両名と連れ立って一旦外へ出て暫時気分転換の芸談義。
他には、新家旭桜と高橋旭妙、そして最後の奥村旭翠師を拝聴。
三味線の名取りでもあったという旭桜嬢、演奏技術においては他の追随を許さぬ達者だが、従来は綺麗にまとまりすぎる語りに難があった。節にのせるとはいえ語りは語り、そこには横溢する気力が見えねばならぬ。彼女はやっとそんな語り世界のとば口に差しかかってきたと見えた。演奏の技巧はともかく語りにおいては旭妙嬢に一日の長がある。艶があり味わいがある。そこは山崎旭萃の直門であった旭妙と奥村旭翠の弟子として出発した旭桜との違いなのかもしれぬ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-32

  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに  
   箕に鮗の魚をいたゞき    杜国

箕-み-に鮗-このしろ-の魚をいたゞき
次男曰く、暮しの習俗を付け出して巧みに場の見定めをしているが、賤魚を頭に載せてはこぶ、という目付にまず俳がある。わざわざ海辺らしい趣向をもとめたり、コノシロを持ち出したりしたところ、「敦盛」を思い泛べたのは芭蕉よりむしろ杜国だったかもしれぬ。コノシロは子の代に通う。生長祈願の呪として昔から知られた魚だ。

「とぶらふ」人を旅の琵琶法師から村人-女だろう-に見替え、牛塚にコノシロを供えに来たのは仔牛安産-生長-の祈願のためらしい、と覚らせる工夫は、「平家物語」とはまた別のあわれがある。中-芭蕉-を振分に遣って三句の情を一変させた趣向はわかるが、「巾に木槿をはさむ」「箕に鮗の魚をいたゞき」は同意にならぬか。「箕に鮗をのせる蜑-あま-の子」とでも作れば、あきらかに輪廻である。「‥‥いたゞき」と連用形留めにして、次句に持成をのこした分だけ、きわどいところで救われているようだ。

「去来抄」に、「蕉門に同巣・同竈-どうそう-といふあり。是は前に作りたる句のいまた-鋳股-入りて作する句也。たとへば、竿が長くて物につかゆると言ふを、刀の小尻に障子がさはる、或は杖がみじかくて地にとゞかぬと吟じかゆる也。同じ竈の句は手柄なし。されど、先より生憎-うまれ-したらん句は又格別なり」。云うところはこの場合と少し違うが、言葉の考え方は同じである、と。


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うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに

2008-02-23 16:09:55 | 文化・芸術
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Information<筑前琵琶へのお誘い>

―表象の森― 死の贈り物-病原菌

図書館で借りていたJ.ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」-草思社刊-の上巻をざっと読み通したが、本書は世界史を習ったばかりの高校生にも充分理解がともなう平易な文体で書かれており、上下巻合わせて650頁といささか長大だが、いまどきの高校生にこそお奨めの良書といえそうである。
上巻の終章は、全4部構成のうちの第3部「銃・病原菌・鉄の謎」における初めの章として「家畜がくれた贈り物」と題されている。
前章や前々章において、羊や山羊、牛馬・豚などの大型草食哺乳類が家畜化されていった大陸間格差の事情を詳細に論じたうえで、それに伴いそれら動物由来の感染症-家畜からの死の贈り物-と共存しつついかに克服していったか、また、いかにしてそれら感染症の病原菌が旧大陸-ヨーロッパ-からアフリカや南北アメリカ、オーストラリアなど、或いは太平洋の島々に、どのように伝播されヨーロッパ支配の地球規模的な拡大をもたらしたかを詳述している。

「動物から人間にうつり、人間だけが罹るようになった感染症は、旧世界と新世界の出会いに影響を与えただけではなく、さまざまな歴史上の局面で結果を左右するような役割を演じている。ユーラシア大陸を起源とする病原菌は、世界各地で、先住民の人口を大幅に減少させた。太平洋諸島の先住民、オーストラリアのアボリジニ、南アフリカのコイサン族-ホッテントットやブッシュマン-が、ユーラシア大陸の病原菌がもとで大量に死んでいるのだ。それらの病原菌に初めて曝されたこれらの人々の累積死亡率は、50%から100%にのぼっている。たとえば1492年にコロンブスがやってきたときにおよそ800万人だったイスパニョーラ島の先住民の数は、1535年にはゼロになっている。1875年、当時のフィジー諸島の人口の4分の1が、オーストラリア訪問から戻ったフィジー人酋長とともにフィジー諸島に上陸した麻疹の犠牲になって命を落としている-大半のフィジー人はすでに、最初にやってきたヨーロッパ人が1791年にもたらした疫病がもとで死亡していた-。ハワイ諸島では1779年にクック船長とともに梅毒、淋病、結核、インフルエンザが上陸した。それにつづいて、1804年には腸チフスが流行した。そして、伝染病のちょっとした流行が次から次へとつづき、その結果、1779年に50万人あったハワイの人口は、1853年には84000人にまで激減してしまった。さらに、天然痘がハワイを見舞ったときには、残りの人口のうちの約1万人が犠牲になっている。」-P315~6-

50%はともかく100%-ゼロ-にまで到ったというイスパニョーラ島の場合などまったくもって驚きを禁じ得ないが、現在のアメリカ合衆国における先住民の人口比率が1%に過ぎないことと照らせば、限りなく100%に近い壊滅的打撃を受けた地域が大多数を占めるというのが歴史的事実であるようだ。
少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民たちにとってかわりその地を征服し支配していった要因として、よりすぐれた武器、より進歩した技術、より発達した政治機構を有していたというばかりではなく、彼らが家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌-とんでもない死の贈り物-が、彼らの意図せざることだったとはいえ、結果として先住民たちにもたらされたことが非常に大きかったわけだ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-31

   巾に木槿をはさむ琵琶打   
  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに  芭蕉

次男曰く、名残ノ折の裏入。景も情も、転ずるのに恰好の巡である。さいわい、秋三句のあとだから雑の句にも移せる。「琵琶打」の含みを取り出して無常を付けている。名残の裏に入ってまで俤さぐりは煩わしいが、たとえば、謡曲「敦盛」に思い及んだと考えてみてはどうだろう。須磨の浦の夕まぐれ、草刈男の笛の音を聞き咎めて敦盛の菩提を弔う蓮生坊-熊谷直実-を、「うしの跡とぶらふ」旅の琵琶法師に見替えれば、これは俳諧になる。いずれにしろ、この句作りは平家一門の滅亡と無関係ではなさそうである。琵琶の名手経正-敦盛の兄-が討死にしたのも一の谷だ。

「跡」がうまい。「夕ぐれに」が良い。「木槿」を一日の栄と読み取っていなければ、こういう言葉択びも出て来ぬ筈だ。第一、「夕ぐれ」が「月を見て」と差合になる。とりわけ感心するのは、先には野水の「郭公」を侘の実に奪い、今また、荷兮の「木槿」を無常の真に執り成した手際で、芭蕉という男の結庵と旅の生きざまを、したたかに見せられた気がする。「野ざらし」の途次、何処ぞで出会ったのではないか、と思わせるような臨場感のある句だ。

通説は、前句の「琵琶打」から平安前期の盲目の琵琶法師蝉丸に思い至り、その旧跡が「栄花物語」などに見える関寺牛仏の弥勒堂と同じところ-逢坂山-にあることに興を覚えた付だと云うが、牛塚の云伝えなど村々にある。ここも、名もなき牛捨場と考えて一向に差し支えない。むしろそう眺める方が風情になるだろう。「跡」が俳言だとわかれば、たまたま牛が一頭死んだらしい、と素直に読んでもよい、と。


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巾に木槿をはさむ琵琶打

2008-02-22 14:13:35 | 文化・芸術
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Information<筑前琵琶へのお誘い>

―表象の森― 流山児の楽道

小劇場運動華やかなりし70年代、「演劇団」を率いて全国を廻っていた流山児祥が、中高年の素人衆に「演劇で遊びましょう」と呼びかけて生まれた「楽塾」10年の歩みなど、生の体験記を聴く機会を得たのは、先週の金曜日-2/15-の夜、神戸学院大学の伊藤茂教授からのお誘いゆえだった。

毎週金曜の夜は、連れ合い殿が琵琶の稽古へと参じるので、いつも私は幼な児-愈々今春小学校入学だが-とお留守番と決まっており、外出するとなるとどうしても子連れの身となる。狭くて暗い小屋の中に詰め込まれるようにして2時間ほども芝居を観るなど到底無理なことだろうが、トークの席ならどうにか耐えられるかと思い、ながらくご無沙汰の続いたちょっぴり懐かしい心斎橋のウィングフィールドに出かけていった。

昨年10周年を迎えたという中高年劇団「楽塾」がとんな集まりでどんな活動をしてきたかは、その席で貰った資料とりわけ16頁だての記念パンフに年々の演目なども網羅されてあり、この冊子を見ればよく理解できる。
流山児のトークは、楽塾の本番舞台のビデオを選りすぐって紹介しながらのもので、どこまでも具体的、現場からの報告そのもので、だかろこそ一見に値し、拝聴するに愉しきものではあったが、彼がこの2.3年前に始めたという、高齢者劇団「パラダイス一座」に話題が及にいたって興は大いに盛り上がった。

昨年暮の12月、パラダイス一座の第2弾となった公演「続オールドパンチ~復讐のヒットパレード」は下北沢のザ・スズナリで10日間興業となり連日満員の盛況だったというが、ソリャ然もありなんである。なにしろ主演俳優は、失礼ながらとっくに此の世の人であるまいと思っていた、昭和12年の文学座創立当初から参加し戦後ずっと演出として君臨してきた戌井市郎センセイ、1916(T05)年生れというから御年92歳になられる妖怪の如き古老である。この怪事に遊び心を刺戟されたか我も我もと集った役者群・スタッフ群は多士済々にして豪華絢爛とも魑魅魍魎の世界とも映るから、このうえない祝祭空間の現出となろう。客を呼ばない訳はない。

流山児は「楽塾」や「パラダイス一座」を以て「楽道を見つけたり」というが、これまた然もありなん。
古来、芝居とは、とは、道楽の極みである。
また、芝居とは、その時々、時代の申し子でなければなるまい。ならば、一介の市井の徒、無名のうちからこそ興るべきもの、それが正統というべきだろう。当節の如く役者の子がまた役者を志すなど例外と見るべきだし、能や歌舞伎のように子々孫々と受け継がれゆくものこそ異端とみるべきだろう。
未だ熟せぬ若年だろうと、不惑の中高年だろうと、はたまた遊行期を迎えた老年であろうと、無名から興るが王道であり、この道楽の極みこそおのが楽土ともなるものだ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-30

  日東の李白が坊に月を見て   
   巾に木槿をはさむ琵琶打   荷兮

「巾-きん-に木槿-むくげ-をはさむ琵琶打-びわうち-」
次男曰く、「槿花一日の栄」ということばがある。ムクゲは朝ひらいて夕にはしぼむ。どうしてまた月見などに取り合せたりしたのだろう、とまず思う。加えて、木槿は古来、初秋の季に一致している。一方、月は兼三秋ではあるが、「月を見て」といえば仲秋、とりわけ十五夜だろう。名月は二夜あるから、九月十三夜つまり後の月見とも読めなくはない。これなら晩秋もそろそろ肌寒い頃になる。

句は、約束に従って秋三句目、いくらなんでもこの季戻りは無茶だ。熟練の俳諧師がそれを承知で「巾に木槿をはさむ」と云うのなら、こだわり方に趣向も主張もあるに違いない、というところから読みが始まる。連句の面白さだ。

李白だけでは片手落ちだ、というところに笑があるだろう。といって、あからさまに杜甫を持ち出すわけにもゆかぬから、「飲中八仙歌」からもう一人を取り出した。
「汝陽ハ三斗ニシテ始テ天ニ朝ス、道ニ麴車ニ逢ヘバ口ヨリ涎ヲ流ス、封ヲ移サレテ酒泉ニ向ハザルヲ恨ム」。
汝陽王は、玄宗の甥である。手のつけられぬ呑んだくれのように読めるが、じつは玄宗が開元年間、最も深く信頼した賢王である。天宝9(750)年、いまだ壮年にして歿し、太子太師の称号を贈られた。その汝陽王が晩年、杜甫の良き庇護者であったことを、荷兮は知っていたのではないか。
若き日の汝陽王は騎射に長け、鞨鼓-両杖皷-の妙手であった。或時、玄宗は紅槿一朶を摘んで彼の帽上に挿して、舞山香を舞わせたが、これを打ち了えるまで花を落とさなかった、という故事が「開元遺事」などに見える。

杜甫の俤を探って、そのパトロンの若き日の故事に行きついたところに、俳諧師らしい心の動きがある。どうやら荷兮にとって「木槿」は趣向上欠かせぬ素材だったようだ。丸帽を頭巾か鉢巻-巾はもともと手拭状の布帛を云う-に、鞨鼓を琵琶に取替え、わざわざ木槿を挿ませ、弾奏を「打」と遣った思い付きは、風狂の工夫と云えなくはないが、「木槿」を実の季と読むには、夜通し月を見た翌朝のこととでも考えなければ、無理がある。

結局この「木槿」は「琵琶打」を平家琵琶の弾奏と面白く覚らせるための、隠喩的取り出し-槿花一日の栄-と読むしかなさそうだ。丈山遺愛の小楼で月を観るほどの風流人なら、相応しいのは雅楽ならぬ平曲だ、と解すれば肯ける。自他いずれとも読める前句の作りを、他と受け取って、琵琶という小道具のあしらいを以てした付で、むろん、嘯月楼に琵琶を持ち込んだと考える必要はない。
諸注いずれも、月見の宴の誰か、又は呼び入れられた琵琶法師と解している。それなら「木槿」を実と読むしかなくなる、と。


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日東の李白が坊に月を見て

2008-02-21 15:07:43 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 大阪のホールがあぶない

昨日-20-、久しぶりに大阪市庁舎を訪れた。
行き先は8階の議員団控室、同行は大文連運営委員長の高田昌氏。
社会保険庁の外郭団体(財)厚生年金事業振興団が所轄運営するハコモノ「厚生年金会館」-西区新町-の売却が予定されており、今年9月以降のホール-劇場-存続が危機に瀕しているからだ。

この外郭団体が所轄運営してきた施設は全国に70ヶ所、みなウェルシティとかウェルハートピア、或いはウェルサンピアと称される宿泊施設をメインにしたもので、その内ホール併設は7ヶ所、札幌・金沢・東京・名古屋・大阪・広島・北九州の各都市にあるが、これらの施設すべて清算事業団である整理機構へとすでに移行しているというから、売却処分は時間の問題なのだ。

それぞれの都市にあってこれらのホールは、文化施設として中心的存在であったろうから、所在地の市民や文化団体のみならず、県や市の行政サイドをもすわ一大事と慌てさせた。札幌や金沢、北九州でも存続させるべく自治体による買取りを決めたと聞くが、財政破綻同然の大阪市は買取りなどとんでもないというわけで、希望の灯は一向に見えないままだ。

そんな騒ぎのなか事態逆転へ一縷の望みを託さんと動いてみた訳だが、少数与党で舵取りも思うに任せぬ平松新市長、はたして火中のクリを拾えるかどうか、ここ1.2週間が攻防のヤマだ。

それにしても、厚生年金会館ばかりでなく、中之島のフェスティバルホールは来年から改装工事のため5.6年は休館するというし、森之宮のピロティーホールは一両年の間に閉館とすでに決まっている。新大阪駅近くのメルパルク・ホール-郵政公社所轄-も近く消えゆく運命と聞く。

おまけに啖呵売の橋本新知事が、府関連の施設総見直しとぶちあげているから、ドーンセンターやエル・おおさかも危ない。
このままでは大阪市内の主要なホールは軒並み姿を消すことになりかねないが、これが暴挙でなくてなんだというのたろう。
大阪は文化不毛の地へと失墜して止まぬ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-29

   秋水一斗もりつくす夜ぞ   
  日東の李白が坊に月を見て   重五

次男曰く、二ノ折十一句目、名残の月の定座である。「秋水一斗もりつくす」夜長の情を尽せるものはどこぞにないか、と誘われて重五は、それは詩仙堂の添水だと云いたいらしい。丈山が創意を凝らした添水が、嘯月楼と共に、詩仙堂の風韻の目玉だと考えればこの作意はわかる。

石川丈山-寛文12(1672)年、90歳で歿-は木下長嘯子-慶安2(1649)年、81歳で歿-と並んで、近世隠士の手本として江戸中期頃までの文人の間で、特別もて映された。素人ばなれした作庭の妙も夙に知られていた-枳殻邸の庭も丈山である-。

「日東-じっとう-の李白が坊」とは、嘯月楼の俳言だろう。「新編覆醤集」の序文に、朝鮮の聘使が丈山を「日東ノ李杜」と称揚したことを伝えている。その「李杜」を「李白」としたのは、調子もあるが、「李白ハ一斗ニシテ詩百篇、長安市上酒家ニ眠ル」-杜甫、飲中八仙歌-からの気転に違いない。作者が杜甫だという点も目付だ。丈山が酒仙だったという聞えはないが、月見に酒が付き物ならこれは「秋水一斗」との容易な連想である。

また、楼を「坊」に見替えた思い付も、添水は僧都とも云うからだ、と考えれば俳が生まれる。「そうづ」は「そほど、そほづ」-案山子-の転訛だろうが、引水による仕掛が普及して、威-おどし-とは別に唐臼や遣水にも用いられるようになった鎌倉-室町期以降、添水の発明者を玄賓僧都-平安初期の興福寺僧-とする説がかなり広く信じられていた。

句はむろん俤の付だが、老丈山が嘯月楼で聞いた添水の「昼ト無ク夜ト無ク、遅カラズ駛-はや-カラズ、曲節度ニ中リ、心ニ適ヒテ以テ山潜ノ寂寥ヲ潤色スルに足ル」響きを偲びながら読まされると、なかなか俳言の利いた付である、と。


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秋水一斗もりつくす夜ぞ

2008-02-20 12:45:35 | 文化・芸術
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―四方のたより― 琵琶の会へのお誘い

今年も筑前琵琶奥村旭翠門下の琵琶の会が、この日曜日-2月24日-に例年の如く文楽劇場の3階小ホールで行われる。
生前は府下高槻市に在住した筑前琵琶の人間国宝だった山崎旭萃が逝かれてすでに2年。その直門の高橋旭妙をはじめ数名の高弟が奥村旭翠一門に加わるようになって、この琵琶の会の陣容は愈々充実の感を呈し、よくあるおさらい会とは一線を画する聴き処を備えるようになった。

我が連れ合いの末永旭濤、このたびの演目は「筑後川」とか。
建武中興の後醍醐天皇が征西将軍として九州に下らせた懐良親王を奉じた菊池武光ら南朝方4万の軍勢と、少弐頼尚を筆頭とする北朝方6万の足利勢が激戦をした、所謂「筑後川の戦い」に因んだ語り物。
この戦いの折、傷ついた菊池武光が刀に付いた血糊を洗ったという故事から筑後国「太刀洗」の地名が今に伝えられ、現在の福岡県三井郡大刀洗町とされる。

春弥生も近く、寒さもしだいにやわらぐ頃、
琵琶弾き語りに聴き入りつ暫しまどろむも一興かと、ご案内する次第。

<奥村旭翠と琵琶の会>
  2月24日(日)/午前11時~午後4時30分頃
  国立文楽劇場3F小ホールにて、入場無料

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-28

  あはれさの謎にもとけし郭公   
   秋水一斗もりつくす夜ぞ   芭蕉

次男曰く、天晴れな解きぶりだ、と映-はや-している。「漏り尽す」は「漏さぬ」があっての興らしい、と覚らせるところにまず俳がある。「水も漏さぬ」とは、もともと男女の仲から生まれたことばだが、後世、物事の攻守双義に遣われるようになると、とどのつまり、閉塞の状までゆきつく反語ともなる。とりなしの利くことばだ。

でたらめな謎をよくぞ解いた、と一応は前句に対する讃辞と読んでよいが、二進も三進もゆかなくなった場を、息の合った応酬で切り抜けたのはさすが尾張衆だと、杜国・重五・野水のはたらきを三つまとめにして、持ち上げる含みがあるようだ。
連句のはこびは、季を移すのに雑の句を挟む。但し、季節順か、季を他季もしくは雑の詞に執成せる場合は、この限りではない。「季移り」とこれを呼んでいる。とはいえ、春の鶯と並べて初音を待たれた短夜の鳥と、夜長もようやく深まった気配とでは、季節も端と端で、これで只順と云って済ますわけにはゆかぬ。「郭公」と「秋水」を寄合と眺めたそれなりの理由があるはずだ、と考えると趣向のたねが見えてくる。

「辺風吹キ断ツ秋ノ心ノ緒、隴水流レ添フ夜ノ涙ノ行」-大江朝綱-、
「三秋ニシテ宮漏正ニ長シ、空階ニ雨滴ル。万里ニシテ郷園何クニカ在ル、落葉窓ニ深シ」-張読.唐-。
前は、先にも引いた「王昭君」の一首-律詩の第二聯-、後は同じく「朗詠」の落葉題に「秋賦」として採る。共に広く愛誦されてきたものだ。胡地に連れ去られる女の怨嗟を、長安後宮の愁思と同じに語るわけにはゆくまいが、右の賦は、そっくりそのまま明妃の望郷の悲しみに当て嵌まる。

芭蕉が、秋風の漏刻らしきものを以て感究まる体に付を案じたのは、朝綱の「王昭君」に重ねて、張読の「愁賦」を自ずと思い浮かべたに違いない-三秋とは晩秋、宮漏は宮中の漏刻である-。違いあるまいが、水時計は中国から伝わり、天智十年に初設、平安末には既に絶えている。言葉の虚実にうるさい俳諧師が、季語の実体を伴わぬ「季移り」に満足したろうか、という疑問がのこる。「秋水一斗もりつくす夜ぞ」には、ひょっとして実体があるのではないか、と読み直させるところが、じつはこの句の一番の見所のようだ。君の「郭公」は謎解きのための止むを得ぬ虚辞だが、私の「秋水」はそうではない、夜長の情を尽す漏刻は今も猶あるから考えてみてくれ、というのが作意である。

この問掛けは重五が当然答えてくれる筈だが、たねを明かせば添水-そうず-だ。竹筒で山清水を受け渡してシシオドシとすれば、なるほど水時計の仕掛に似ていなくはない、と気付かせるところに第二の俳が現れる。因みに、添水は仲兼三秋の季語である。王昭君の泪の量をはかりながら-隴水流レ添フ夜ノ涙ノ行-、季情の「あはれ」を虚から実へ奪ってみせた手腕は、さすがと云うほかない。「一斗」という誇張も、昭君の泪から添水へと考えればわかる、と。


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