山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

あやにくに煩ふ妹が夕ながめ

2008-05-26 16:42:04 | 文化・芸術
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―表象の森― ふたつの画集

市岡OB美術展の最終日-5/24-、閉館も近い午後4時前の現代画廊は、生憎の雨模様にもかかわらず、懇親会に集った関係者で溢れていた。常連の出品者らはほぼ顔を揃えていたのはもちろんだが、生物の小椋さんのほか見知らぬ顔ぶれも幾人か交えて、テーブルを長く囲むようにして和やかに賑やかに団欒モード。
ところが、梶野御大の姿がまだ見えぬ。相変わらずの超遅刻で、お出ましは私が着いてからさらに20分ほど経っていたか。

幹事役の神谷君から昨日会場に到着したばかりだという「中原喜郎作品集」が紹介され、希望者らが各々手に取っていく。絹代夫人の精魂かけた画集は、判型285×225、152頁立て。手に取るも開いてじっくりと観られるようなその場でもなく、対座は帰宅してからのことだ。

ニューミュンヘン梅田本店へと会場を移しての宴は総勢23.4名か、長テーブル二つに窮屈なほど詰めて、相変わらずなかなかの賑やかさだったが、顔ぶれもほぼ固定、この会も十年を経てずいぶん高齢化してきた感が先立つばかり。
一瞬、石炭倉庫の情景を思い浮かべては隔世の感がすることに愕然としてしまうほどだ。

お決まりの三次会、カフェ・コースに落ち着いたのは8人だったか。席上、遠田珪子さんの夫君遠田泰幸作品集をざっと拝見させて頂いたのだが、隣に座る彼女に気の利いた感想の一つも発せぬ自身の無粋さに、みんなと別れて独りになってから気がつく始末では、我ながらまったくどうしようもないヤツガレである。

ともかくもこの日わたしは、異なる二人の画家の遺稿集-画集-を手にすることとなった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-27

   垣穂のさゝげ露はこぼれて  

  あやにくに煩ふ妹が夕ながめ  越人

次男曰く、ナデシコとトコナツは同じ花の別名と、越人も承知して付けている。そうでなければ、後の名月に寄せて前の名月を偲ぼうという興がこの両吟のそもそもの趣向であるにせよ、こう易々と-玉鬘と夕顔との-俤の取替はできぬものだ。

「煩ふ」は病とも恋とも、その他もろもろとも解せるが、苦悩を一つに限りたくない気分が作者にあるようだ。「夕ながめ」は、先の「秋の夕ぐれ」-第四-と同じく名をかすめた越人一流の栽入だが、遡れば、十一句を隔てて、朝・昼・晩と移る恋の情が現れてくる。

   足駄はかせぬ雨のあけぼの
  きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
   かぜひきたまふ声のうつくし
  手もつかず昼の御膳もすべりきぬ

そして「あやにくに煩ふ妹が夕ながめ」である。後朝の恋が昼まで尾を引けば、夕にはどうなったろうと考えるのは人情だが、その辺の目配りは越人にもあったに違いなく、事実「夕顔の巻」には、その年の八月十五夜がことのほか寒かったことも、翌十六日は源氏が「日たくる程に」起きてきたことも、ちゃんと書かれている。

「雨のあけぼの」以下四句のはこびが、単なる王朝趣味の恋句ではなく、じつは夕顔に狙いを付けた巧妙な伏線だった、と気付かせるように「夕ながめ」の句は作られている。

「物いそくさき舟路なりけり-越人」、「月と花比良の高ねを北にして-芭蕉」と、纏綿とした恋の情をひとまず預けて旅体に転じたエピソードにも、いきおい、あらためて心が戻る。作り物語と軍記は違うが、「源氏」も「平家」も通底する「もののあはれ」は同じだ。合せてみたくなってあたりまえで、「海道下り」の栽入-「比良の高ねを北にして」-が思いがけぬ興を生む。

「夕ながめ」の句は、重衡の亡骸を日野に取り寄せた北の方の悲歎-平家物語・巻11、重衡斬ラレ-とも読め、うまい添えかたをする。

須磨の浦に「其日のあはれ、其時のかなしさ、生死事大無常迅速」-四月二十五日付、伊賀の猿雖宛-の感を覚えた俳諧師にしてみれば、こういう目配りの利く相手はとりわけ気に入ったろう、と。


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垣穂のさゝげ露はこぼれて

2008-05-24 14:37:11 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-26

  ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に 

   垣穂のさゝげ露はこぼれて  芭蕉

次男曰く、天井裏で鼠が暴れれば垣根の大角豆-ササゲ-が驚いて露を零-こぼ-す、というユーモアにはしほりがある。

二句一意、滑稽歌ふうに仕立てながら、二ノ折入以下のひそひそとした人情句続の息苦しさを、しばし庭の眺めに目を遣る体にほぐしている。

即妙の気転で、常人なら「こぼして」情で作りたくなるところを、「こぼれて」と怺-こら-えたあたり、景を景たらしめる作意充分の付だが、こういう応酬には必ずや素材に用の含がある。

タマカズラ-玉鬘は玉蔓-つる草の美称-に通じる。因みに、玉鬘はもともと蔓に玉類を吊り下げて頭飾りとしたもので、緒玉にこしらえたのは後の工夫だろう。「垣穂のさゝげ」は、玉鬘の俳言だとさとらせるように、句は作られている。「垣穂」と蔓は寄合、ササゲ-カキササゲ-はつる草だ。「露」も玉の縁語である。

ササゲは晩春・初夏に種を下ろし、晩夏・初秋の候、莢-サヤ-に実が入る。今の歳時記はこれを秋の季とするものもあるが、昔は晩もしくは仲夏としている。莢は若い頃がよい。夏季の扱いは旬の味に拠ったものだろう。秋になって成熟したササゲの莢の長さは2.30㎝、なかには1m余にも及ぶものがあり、十六ささげ-一莢に16子入-、十八ささげの呼名が生れた。寺島良案安の「和漢三才図会」-正徳3(1713)年-や貝原益軒の「大和本草」-宝栄5(1708)年-には十八ささげが、人見必大の「本朝食鑑」には十六ささげが挙げられている。ジュウロクササゲは今でも学名になっている。

その十六がどうやら、隠されたもう一つの含のようだ。頭中将の常夏の女-夕顔-が撫子-玉鬘-を宿したのは、十六歳の、季節も夏の頃である。三年後、八月十五夜の明け方近く、なにがしの院へ源氏に連れ出された女は、十六日宵過ぎに呆気なく頓死する。これはササゲの実入りの始終にとりなして-「垣穂のさゝげ-十六-露はこぼれて」-、面白く擬人化できる話だろう

「垣穂のさゝげ」を、玉鬘にとどめず、合せて夕顔の俳言でもあるらしいと覚れば、ササゲの蔓にヒョウタンが生るという冗談はわるくない。ユウガオもつる草である。因みに「常夏の巻」には、美しく成人した玉鬘を実父内大臣-前の頭中将-に見せたくなって、亡き夕顔を偲びながら源氏の詠んだ歌がある。
  「なでしこのとこなつかしき色を見ば本の垣根を人や尋ねん」

遡って「帚木の巻」には、女児を産んだ常夏の女が頭中将に書遣った歌
  「山賤-やまがつ-の垣穂荒るとも折々にあはれは掛けよなでしこの露」
が見え、「ほとゝぎす」以下二句の付合はこの歌をもからめているように思う、と。


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ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に

2008-05-23 16:03:32 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 暴君ネロとや

橋下徹大阪府知事によるPT案-財政再建プログラム試案-が矢継ぎばやに次々と出され嵐となって吹き荒れている。今日も今日とて給与12%カットの報が所狭しと紙面に躍っている。おまけに聖域と云われた退職金まで当分の間5%カットという徹底ぶりだ。TVのワイドショーは批判もなくはないがこの異端児改革のお先棒担いだ礼賛派がかなり目立つ。

彼自身、暴君ネロにもなってみせようと自負してなんら痛痒のみられぬ御仁である。MASSでは数が質に変成してしまう。183万票の数がとんでもない妖怪を産み落としてしまった、としかいいようがない。

先に縮小やカットを取り沙汰されてきた福祉や教育関係、さらには文化やスポーツ施設の数々。これに反対の狼煙を上げる動きも一部にあるが、まだまだひろがりを見せるに至っていない。私のところにも反対運動の署名や賛同、あるいは集会への参加を求める案内文書の類が寄せられているが、まさに緒についたばかりという様相で、暴君ネロ殿のスピードのほうが今のところ数段勝っている。

このまま6月議会へと突入すればとんでもないことになる。
議会は混乱必至だろうが、なにしろ大量の数をバックに怪物化してしまった暴君である。彼らは勝負の初めからして数の亡霊に戦々恐々としてきたではないか。推して知るべし、結果は見えている。
といってこのまま手を拱いているばかりではなんら道も開けぬのだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-25

   初瀬に籠る堂の片隅    

ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に  越人

次男曰く、「月と花」以下春三句、雑五句と来て、後続四句目には月の定座を控えている。はこびはこの辺で夏もしくは冬の一句も欲しいところである。

「ほととぎす」とはよい思付だ。ほととぎすはうぐいすと並んで、古来初音を待たれた。「かしましき程鳴き候へども、稀にきゝ、珍しく鳴、待かぬるやうに詠みならはし候」と、紹巴の「至宝抄」-天正13年-も云っている。

「初瀬」の移りだと容易にさとらせる名にうまく季をかぶせて初五に取り出し、「鼠のあるゝ最中に」と、和歌・連歌についぞ見かけぬ意表を衝いた合せを以てしたところ、なかなか俳の利いた作りだが、西行に「ほととぎす聞きにとてしも籠らねど初瀬の山はたよりありけり」-山家集・夏-という歌がある。参籠に鼠は付き物、というだけでは初瀬のほととぎすは聞けぬ。この歌は越人の作意にあったに違いない。

そろそろ種明しの潮時ではないか、と云いたげな芭蕉の唆誘に、先生の初瀬詣でのゆかりは玉鬘よりもむしろ西行さんだろう、と恍けた躱し方は巧い。むろん先の「春の夜や」の句を心にかけたうえでのことで、両吟という応酬を面白くする。
「笈の小文」行脚は、西行を通して肝胆相照らした指定の同行という点に格別の意義があり、伊良胡崎への案内を務めた越人がそれを思わなかった筈はない。

「初瀬にほととぎすは西行の歌からの連想もあろうが、鼠の騒音のうちに雅趣あるほととぎすを聞いたとしたところが俳諧的で、初瀬の山趣がよくあらわれている」-中村俊定-、と。


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初瀬に籠る堂の片隅

2008-05-22 15:45:03 | 文化・芸術
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―表象の森― 逝きし世の面影

英国の商人クロー-Arthur H. Crow、生没年不詳-は、1881(M14)年に木曽御嶽に登って、「嘗て人の手によって乱されたことのない天外の美」に感銘を受ける‥ -略- クローは木曽の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子供連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真ん中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走って行く。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。子どもたちは自分とおなじ位の大きさの子を背負った女の子を含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づき合いのよさと幸せな様子」を見てクローは感動した。 -「逝きし世の面影」P12~13より-

日本中のどこを探してももう見られることのないこういった叙景に、戦後の食糧難で徳島県南部の海辺や山里の田舎で疎開暮しをしたこともある昭和19年生れの私などには、遠い記憶の片隅に残るきれぎれの風景に少し想像を働かせ重ねてみるならば、些か紗幕のかかったようなおぼろなものとはいえ、響き合うような風景を想い起こすことは辛うじて可能であるが、少し世代を下ればもうそんなことも適わぬ望みなのかもしれない。

4歳上の次兄など、長じては「よく子守をさせられた」と愚痴ていたものだが、一昨年訪れてみたすでに廃屋となって久しい母親の里の隣家、此処はプレハブに建て替えられていたのにどうしたわけか無人と化し荒れ放題であったが、その家には次兄と同じ年のスガちゃんというひとり娘が居て、この二人がきまって4歳下の私ども-双生児の兄と-の子守役だったとよく聞かされたもので、たしかな記憶などさっぱりないけれど、乳飲み子二人に幼な児二人と帳尻もぴったりなれば、さもありなんかと幼な心にも得心がいったりしたものであった。

とまれ、ヒトの脳は可塑性に満ちているという。さまざまな記憶の断片が潜む海馬はとりわけ可塑性に富むともいわれる。ならば記憶と想像力のネットワークには無限ともいえる可能性があるともいえようか。
本書を繙く読者は、知らず知らず深層に眠る記憶の数々が呼び覚まされ、豊穣な想像の世界が涌き立ち溢れるにちがいない。

―今月の購入本―
・R.P.ファインマン「ご冗談でしょう、ファインマンさん-上-」岩波現代文庫
量子電磁力学のくりこみ理論で1965年に朝永振一郎とともにノーベル賞を受賞した著者の、名著の誉れ高いユーモア満載の自伝的エッセイ。1986年刊行の文庫版、2000年初版よりすでに17刷を数える。

・宮坂宥勝監修「空海コレクション-2-」ちくま学芸文庫
空海の著作「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「般若心経秘鍵」「請来目録」を収録、訳注・解説する。

・渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社ライブラリー
滅んだ古い日本の文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らなければならない、という著者は夥しい幕末・明治の来日外国人の記録を博捜・精査することによって、失われしものたちの墓碑銘を刻んだ。目眩く桃源郷のごとき近代以前の庶民の姿。初版は1998年葦書房刊、ライブラリー版は05年初版で既に15刷。

・安東次男「芭蕉百五十句-俳言の読み方」文春文庫
昭和61年「芭蕉発句新注」筑摩書房刊に14句を追補し、々64年文庫版として発刊。中古書。

・吉本隆明「情況への発言-3」洋泉社
個人誌「試行」の巻頭を飾った「情況への発言」全集成の完結版、1984年から終刊の1997年12月までを収録。

・池田万太郎「池田万太郎の楽画記」JDC出版
一コマ漫画のみに執着したアマチュア漫画家の著者は本名池田義徳、市岡高校の13期生である。その高校時代、彼は一度だけ、「太鼓」という劇で舞台に立ったことがある。その印象はかなり鮮烈なものとして私の記憶の裡にある。偶々、その彼が作品集をものしているのを知って買い求めた。中古書。

・広河隆一編集「DAYS JAPAN -第4回Photojournalism大賞-2008/05」

―図書館からの借本―
・蒲島郁夫「戦後政治の軌跡」岩波書店
この春、長崎県知事に転身した著者の「自民党システムの形成と変容」と副題された、80年代以降の詳細な選挙リサーチに基づいた日本の政党政治分析理論。

・安富歩「貨幣の複雑性」創文社
2000年11月初版。本書表紙裏に、複雑系の新しい手法と、開放系・知識・選択権・市場性・多様性・創発・自壊といった新たな概念を導入、経済理論の革新を試みる、とある。

・Y.シュミット「ピナ・バウシェ-怖がらずに踊ってごらん」フィルムアート社
ルドルフ・ラバン、クルト・ヨースに連なる現代舞踊の大御所ピナ・バウシェの作品世界の軌跡を同伴者的に解説した書。1999年初版。

・R.ホーゲ「ピナ・バウシェ-タンツテアターとともに」三元社
著者はピナ・バウシェの作品制作にも協働したフリージャーナリスト。1979年から86年にかけて、演劇批評雑誌や総合雑誌、また上演パンフなどに掲載されたものを収録。原書は86年刊、日本語訳は99年初版。

・「別冊日経サイエンス№159-脳から見た心の世界Part3」河出書房新社
・「別冊日経サイエンス№158-温暖化危機-地球大異変Part2」河出書房新社

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-24

  人去ていまだ御坐の匂ひける  

   初瀬に籠る堂の片隅    芭蕉

次男曰く、ふさわしい場を見定めた付である。

大和桜井の長谷寺詣では平安中期には既に遊山行事と化していたから、とくに俤など探るまでもないが、この巻のはこびについて云えば、流浪の玉鬘が筑紫から上って、開運祈願のために詣でたのが、ほかならぬ初瀬だったということは見逃せない。たまたま其処で亡母の乳母子右近-今は紫上の侍女-とめぐり逢うことが、源氏の許に引き取られて養女となり、彼女に運をもたらすのだ。

芭蕉が越人の謎掛けを、夕顔の霊が引き合せる源氏の俤と読み取っていたことは間違いあるまいが、古来初瀬籠りに貴賎の別ないことを興として同工の発句を彼は先にも作っている。

  春の夜や籠り人ゆかし堂の隅

杜国を伴って行脚に出た、同5年3月下旬のことである。ただの籠り人-こもりど-も初瀬で会えば俤の添う尊い人に見える、ということを「ゆかし」と云い回したまでで、特別の含を持たせた句ではあるまいが、六ヶ月後、付句としてこれを栽ち入れたのは、その時の興に特定の俤を添わせてみたい気分が動いたからに違いない。

「旧解源氏物語玉鬘の巻のおもむきと為す。されど玉鬘の君初瀬に籠りて、亡き母夕顔の上の乳母にして今は源氏の六条院に仕へ居れる右近に邂逅することは有れども、前句に当るべきこと毫も無し。‥玉鬘の君は此時は筑紫より上りたるばかりにて、御坐の匂ふほど佳き香など身に薫染め居れるにもあらず、‥此句はただ前句を転じて、よき人の初瀬詣でしたる後に、参籠の者の、如何なる貴き方にや、去り給ひしあとの猶ほ香の匂ふと云ふまでのさまなるべし」-露伴-、亡母の霊の手引で開運するという簡単な趣向を見落とすと、こういう解釈になる、と。


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人去ていまだ御坐の匂ひける

2008-05-21 16:09:11 | 文化・芸術
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―世間虚仮― QahwahからCoffeeへ

日なが家に居て、本を読んだり、パソコン相手にMemoをとったりと過ごしていると、どうしても喫煙や喫飲の量が多くなる。私の場合、飲料のほうはもっぱら珈琲、それも安上がりで手間のかからぬインスタント一辺倒だ。

そのコーヒーのルーツはといえば、意外なことに13世紀頃のアラビアだという。「カフワ-Qahwah-」と呼ばれたが、アラビア語のQahwahは元来ワインを意味し、これが転訛したとされる。

原産地をエチオピアあたりとするコーヒー豆は、6世紀頃アラビア半島で栽培されるようになる。バターでボール状に固められ遊牧民たちが移動の際に携行したという。熱砂の地域では活性効果をもたらすものと重宝されたとみられる。

この豆が煮出しされるようになり飲用となっていくのが13世紀頃で、イスラムの神秘派スーフィーの僧侶たちに愛飲された。この「カフワ」がモカの港からオスマン帝国の首都コンスタンティノーブルに渡り、やがて街中に「カフワの家-coffeehouse-」が立ち並ぶようになる。16世紀後半にはその数600軒を越えたという。

これがヴェネチアの商人たちによってヨーロッパへと伝えられ、彼らは焙って香りを出すように変えて、ロンドンやアムステルダムついではパリでと、サロンやクラブで紳士淑女たちの嗜好飲料となってひろまり、現代のコーヒー文化へと連なる。
3000~4000店も軒を並べたというロンドンのコーヒーハウスからは「ジャーナル」が発行され、いわゆる雑誌メディアが誕生し、さらには保険会社や政党までもがこれを拠点に起こったという。

オランダから日本に伝わったのは17世紀とされるから、これまた意外に早い。だが、茶の全盛期を迎えていたこの国ではまったく普及せず、かの蘭法医シーボルトが「なぜ日本人がコーヒーを飲まないのか不思議でならない」と書き残している、と。
時代劇でお馴染みの「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元が意外なことにマニアであったとされるが、このあたり父-景晋-が長崎奉行だったという縁からか。
いずれにせよ、日本にコーヒー文化がひろがり根づくようになるのは、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と囃された明治も20年代になってからだ。

インスタントコーヒーにまつわる話題では、これまた意外や意外、この発明者は日本人だったというから驚きだ。時に1899年、彼の人は加藤サトリ-一説にサルトリとも-、時に1899年、シカゴ在住の化学者であった彼は、液化コーヒーを真空乾燥法という手法で粉末化することに成功、のち1901年にパンアメリカン博覧会に「ソリュブル・コーヒー-可溶性コーヒー-」という名前で出品されたものの、彼はよほど無欲の人だったとみえて特許出願などしていなかったため、アメリカ人のなる人物に特許の権利をみすみす掠われてしまったらしい。漁父の利を得た件の人が初代大統領と同名のG・ワシントンというのが、これまたアイロニーたっぷりで面白すぎる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-23

   ものおもひゐる神子のものいひ  

  人去ていまだ御坐の匂ひける   越人

人去-さり-て、御坐-おまし-

次男曰く、「ものいひ」の内容を付けている。「人去ていまだ御坐の匂ひける」とは、そのまま霊媒のことばと読んでよい。

「家なくて」服紗に包んだ鏡だけが残った、「人去て」御坐の余香だけが残った、というのは発想の差合にならぬかと気になるが、余香を嗅がせて素性を探らせる仕掛は巧い。立ち去った「人」が高貴の位なることは分明の作りだが、男女いずれとも分からず、むろん、鏡の持主の尋ね人だとただちに云っているわけではない。

越人も亦、たのしみを後に残しながら、話作りの暗示的工夫によく即いていっているようだ、と。


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