山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

いちにち雨ふり一隅を守つてゐた

2009-09-23 23:31:57 | 文化・芸術
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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月10日の稿に
11月10日、雨、晴、曇、行程3里、湯ノ平温泉、大分屋

夜が長い、そして年寄は眼が覚めやすい、暗いうちに起きる、そして「旅人芭蕉」-荻原井泉水著「旅人芭蕉抄」か-を読む、井師の見識に感じ苦味生さんの温情に感じる、ありがたい本だ-これで三度読む、6年前、2年前、そして今日-。-略

ここ湯ノ平といふところは気に入つた、いかにも山の湯の町らしい、石だたみ、宿屋、万屋、湯坪、料理屋、等々々、おもしろいね。-略-

人生の幸福は健康であるが、健康はよき食慾とよき睡眠との賜物である、私はよき-むしろ、よすぎるほどの食慾をめぐまれてゐるが、どうも睡眠はよくない、いつも不眠或は不安な睡眠に悩んでゐる、睡られないなどとはまことに横着だと思ふのだが。-略-

※表題句の外、5句を記す

―四方のたより― こんどはお題を

次のDance Cafeも3日後に迫ってきた。
このたびはいつもと趣向を変えて、それぞれのSceneに小見出しを、お題を付けてみようと思い立った。
踊る方にも、また観る側にも、ひとつの手がかりにはなるだろう。もちろん、充てられた言葉が、却って阻害のタネとなる懼れもある。あるが、ものは試し、である。
以下は、その構成的メモ

A-「日蝕-にっしょく-」
46年ぶりの皆既日食だった7月22日、多くの人々が訪れたトカラ列島の悪石島では、時ならぬ荒れ模様の天候で観測不能、嘆きと恨みの6分25秒となった。
天岩戸神話は皆既日蝕の物語化であると唱えたのは荻生徂徠にはじまるという、また、邪馬台国の卑弥呼が死んだとされる248年、日蝕が起こっていたとする説もある。
日蝕の残してゆきぬ蟇-ひきがえる- -石母田星人

B-「月暈-つきかさ-」
月暈も沼の光も白き夜はみそかに開く睡蓮の花 -横瀬虎壽
母逝くと電報うちて立もどる霜夜の月のつきがさくらし -岡麓
梅が香のたちのぼりてや月の暈 -一茶

C-「地震-なゐ・ぢなり-」
なゐ-古名-、古来<な>は地を、<ゐ>は場所を表し、地震が起こることを<なゐふる>-大地震える-と云った。
国一つたたきつぶして寒のなゐ -安東次男

D-「人外-にんがい-」
古語としては、人以外のもの、動物や妖怪を指す、転じて、道を外れた人、人でなし。
昨今のSubcultureでは人外何某と夥しくも盛んなこと。

E-「水鏡-みずかがみ-」
水鏡乱れし髪に手をやりて想い捨て去る夏待てぬ蝶 -menesia
田に水が入り千枚の水鏡とは -鈴木石男
水鏡してあぢさゐのけふの色 -上田五千石

F-「火車-かしゃ-」
悪事を犯した亡者をのせて地獄に運ぶ、火の燃えさかっている車をいう仏語。
烏山石燕-江戸中期の画人-が描く「図画百鬼夜行」などには妖怪としても登場する。

G-「風神雷神-ふうじんらいじん-」
中国古来には、雷公・雷鼓・風伯あり、密教では、波羅門の神を取り込んだ風天・帝釈天がある。
奈良生駒の竜田社の風祭に代表される風神祭は全国津々浦々にひろがって今にのこる。雷神は水神・火神の二面を備えた最高神格ともみられ、古来天神として畏敬信仰されてきた。悲運のうちに太宰府で死んだ菅公が天神さんへと化したように、御霊の猛威が雷神に象徴されることも多かった。


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枯草、みんな言葉かけて通る

2009-09-21 14:14:46 | 文化・芸術
Dc09070762

Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月9日の稿に
11月9日、晴、曇、雨、后晴、天神山、阿南屋

暗いうちに眼が覚めてすぐ湯へゆく、ぽかぽか温かい身心で7時出発、昨日の道もよかつたが、今日の道はもつとよかつた、ただ山のうつくしさ、水のうつくしさと書いておく、5里ばかり歩いて1時前に小野屋についたが。ざつと降つて来た、或る農家で雨宿りさせて貰ふ、お茶をいただく、2時間ばかり腰かけてゐるうちに、霽れてきた、小野屋といふ感じのわるくない村町を1時間ばかり行乞して、それから半里歩いて此宿へついた。-略-

歩いてゐて、ふと左手を見ると、高い山がなかば霧に隠れてゐる、疑いもなく久住山だ、大船山高岳と重なつてゐる、そこのお爺さんに山の事を尋ねてゐると-彼は聾だつたから何が何だか解らなかつた-そのうちにもう霧がそこら一面を包んでしまつた。-略-

山々樹々の紅葉黄葉、深浅とりどり、段々畠の色彩もうつくしい、自然の恩恵、人間の力。-略-

山はいいなあといふ話の一つ二つ-三国峠では祖母山をまともに一服やつたが、下津留では久住山と差向ひでお弁当を開いた、とても贅沢なランチだ、例のごとく飯ばかりの飯で水を飲んだだけではあつたが。
今日の感想も二三、-草鞋は割箸とおなじやうに、穿き捨ててゆくところが、東洋的よりも日本的でうれしい、旅人らしい感情は草鞋によつて快くそそられる。
法眼の所謂「歩々到着」だ、前歩を忘れ後歩を思はない一歩々々だ、一歩々々には古今なく東西なく、一歩即一切だ、ここまで来て徒歩禅の意義が解る。
山に入つては死なない人生、街へ出ては死ねない人生、いづれにしても死にそこないの人生。-略-

酒はたしかに私を世間的には蹉跌せしめたが、人間的には疑ひもなく生かしてくれた、私は今やうやく酒の緊縛から解脱しつつある、私の最後の本格が出現しつつあるのである、呪ふべき酒であつたが、同時に祝すべき酒でもあつたのだ、生死の外に涅槃なく、煩悩の外に菩提はない。-略-

今夜も水音がたえない、アルコールのおかげで辛うじて眠る、いろんな夢を見た、よい夢、わるい夢、懺悔の夢、故郷の夢、青春の夢、少年の夢、家庭の夢、僧院の夢、ずゐぶんいろんな夢を見るものだ。
味ふ-物そのものを味ふ-貧しい人は貧しさに徹する、愚かなものは愚かさに徹する-与へられた、といふよりも持つて生まれた性情を尽す-そこに人生、いや、人生の意味があるのぢやあるまいか。

※表題句の外に、25句を記す、
その中に、「ホイトウとよばれる村のしぐれかな」もみえる
それにしても、この日の行乞記はやたら長い、文庫にしてちょうど8頁、話題は思うがままさまざまにとぶ。

―四方のたより― ながいまわり道

昨日の稽古に、山田いづみが参入。
ずいぶん古い話だが、’81年か2年頃であったろう、たった一度きりだが、彼女は晴美台の私の稽古場に来たことがあった。当時、神澤師に師事するようになって2年余りか、埋めきれぬものを抱いて心はすでに別なる世界を激しく求めていたのだろう。若さゆえでもあるその激しさは、神澤師とは似て非なるとはいえ私の許とてまた同類同縁に映るのもやむを得ず、別なる新天地を求める選択をこそ必要としたのではなかったか。

次に彼女と再会したのは、’87年の春、少女歌舞劇シリーズの「ディソーダー」をもって参加した枚方演劇祭での、劇団犯罪友の会-現・劇団HANTOMO-の打上の宴だった。彼女は座長武田一度君の細君として宴の中に居た。後に私は、武田君とも縁が出来て交わるようになり、今日まで折々それぞれ個別の付合いをしてきたことになる。

場合によっては長時間にわたるのも覚悟していた稽古のお手合せは、いざとなればごくゆるやかに、互いにご挨拶程度のもので了とした。用意しておいた構成的メモ、これに基づいて少なくとも段取りめいたものがほぼ共有できたとみえたからだ。彼女とていわば百戦の踊り手、自分なりにイメージが成ったとすれば、その時孰を本人に任せたほうがよい。

終わって一緒に飯を喰った、やはり話が弾む。お蔭で私のなかに大きな課題が生まれた。いや正確には、以前より心の底に秘めた宿願の如きもの、これに灯が点いた、現実に向き合うべき時期が到来しつつある、というべきか。


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一寝入してまた旅のたより書く

2009-09-19 14:54:53 | 文化・芸術
Dc09070720

Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月8日の稿に
11月8日、雨、行程5里、湯ノ原、米屋

やつぱり降つてはゐるけれど小降りになつた、滞在は経済と気分が許さない、すつかり雨支度をして出立する、しようことなしに草鞋でなしに地下足袋-草鞋が破れ易いのとハネがあがるために-、何だか私にはそぐはない。
9時から1時間ばかり竹田町行乞、そしてどしどし歩く、村の少年と道づれになる-一昨々日、毛布売の青年と連れだつたやうに-、明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかつた、雑木山と水声と霧との合奏楽であり、墨絵の巻物であつた、3時近くなつて湯ノ原着、また1時間ばかり行乞、宿に荷をおろしてから洗濯、入浴、理髪、喫飯-飲酒は書くまでもない-、-いやはや忙しいことだ。

ここは片田舎だけれど、さすがに温泉場だけのことはある-小国には及ばないが-、殊に浴場はきたないけれど、解放的で大衆的なのがよい、着いてすぐ一浴、床屋からもどつてまた一浴、寝しなにも起きがけにもまたまた一浴のつもりだ! -略-

夜もすがら瀬音がたえない、それは私には子守唄だつた、湯と酒と水とが私をぐつすり寝させてくれた。

※表題句の外、8句を記す
そのなかに、「雨だれの音も年とつた」の句がみえる

-日々余話- Soulful Days-29- 9.17という日

17日の朝、大阪地方検察庁に向かって車を走らせていたその途中、携帯が鳴ったので車を停めた。電話の主は息子DAISUKE、彼にとっては祖母、私には嘗ての義母乃ちIKUYOの母親の死を伝えてきたものだった。
その日の朝、8時43分頃、享年92歳だった、と。

もう10年近くになるか、弁護士だった夫に先立たれてからの其の人は、徐々に痴呆症状を呈してきていたと聞く。しばらくは東京に居たのだが、IKUYOが波除に住むようになると同時に引き取って同居するようになった。IKUYOとRYOUKOとの3人暮しがはじまったわけだが、朝早くから勤めに出るIKUYOと夜になってから出かけるRYOUKOという対照的な暮し向きのなかで、近所の施設からのディサービスなどをうけながら老人の介護がとられてきたのだった。

昨年、RYOUKOの事故死が起こったその少し以前から、痴呆も重篤さを増してきていた其の人は、ショートスティを繰り返すかたちで施設暮しがはじまっていた。IKUYOは其の人にRYOUKOの不幸をけっして伝えなかった、いや伝えられなかったのだろう。其の人はRYOUKOの死を知らぬままにこの世を去ったのである。互いの命日が9月14日と17日、一年をおいてなぜかほぼ重なるようにして。

私が大阪検察庁に着いたのは、ちょうど10時、約束の時間どおりだった。2度ばかり電話で話したことのある事件を引き継いだ検察官は、先のN副検事とはまるで陰と陽、好対照の印象だった。此方の話を気さくに聞いてもくれたし、私の出した書面のその細部についてもいろいろと尋ねてきた。ただ審理については、府警の科学捜査研究所の分析結果が上がってこないかぎり、一向進まないわけで、検察はただ手を拱いて待つばかりなのだ。どうやら此方としては、干渉の矛先を府警に向けなければ埒があかないらしい。

午後1時からは、近くの喫茶店で、相手方運転手Tの父親と、昨年暮れ以来の対面。
この動かぬ局面。検察の審理はDrive Recorderの一件以来、ひたすら待つしかない。民事訴訟はゆるゆる動いたとしても、問題の本質=事故原因を審理するのは本筋でなく、これを俎上に乗せようとすれば、これまた相当の工夫と根気がいるし、はたして叶うかどうかも疑問だ。

一周忌を迎えるにあたって、私はどうにも動かぬこの局面を打破したい、と身内から衝き動かされてきたらしい。それが在日の疑惑を抱いて以来拒絶してきたTの父親との、一対一、ほぼ3時間に及んだ、直接の対話だった。

これまではいずれも事故当事者である息子Tを横に置いてのことで、その重荷から解放されての私との対面は、より率直に、より素直に、彼自身まるごと顕わにされていたようであった。もちろん私はこれまでも、Tと父親を前にして、いま彼がそうであるように、私自身をまるごとぶつけてもきたつもりである。

単刀直入、Drive Recorderの私なりの分析や所見について具にあからさまに伝えたし、この半年のあいだ私を苦しめてきた彼の在日疑惑についても問うた。彼の経歴からしてもそう考えざるを得なかったし、これを否定する彼に、経歴の一つひとつ、その経緯を質し、なお得心しかねてはまたも問うを繰り返した。在日になにがしかの偏見があったわけではない、しかし、在日なれば、いまだこの日本の現実で、あってはならぬことだが、超法規的な行為もやれぬことはない。私の頭のなかではこの半年ずっと、在日-捜査への圧力という図式が強固に成り立っていたものだから、この疑惑を打ち消すには繰り返し問い質さざるを得なかったし、またこれを氷解させるのには時間を要した。

結果、彼は在日ではなかった。これを打ち消す応答振りを、私としては注意深く観察もしたつもりだが、彼の言葉に一片の嘘も感じられなかった。最後はお互い笑顔で別れた。
いま私は、ある種の虚脱感に襲われながら、心のなかに膨張しつづけてきたこの疑惑を否定し、抹消しつつある。


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筧あふるゝ水に住む人なし

2009-09-17 23:54:12 | 文化・芸術
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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月7日の稿に
11月7日、曇、夕方から雨、竹田町行乞、宿は同前

雨かと思つてゐたのに案外のお天気である、しかし雨が近いことは疑はなかつた、果して曇が寒い雨となつた。
9時から4時まで行乞、昨年と大差はないが、少しは少ないが、米が安いのは的確にこたえる、やうやく地下足袋を買ふことができた、白足袋に草鞋が好きだけれど、雨天には破れ易くてハネがあがつて困るから、感じのよいわるいをいつてはゐられない。-略-

今夜も夜もすがら水声がたへない、階下は何だか人声がうるさい、雨声はトタン屋根をうつてもわるくない、-人間に対すれば増愛がおこる、自然に向へばゆうゆうかんかんおだやかに生きてをれる。

月! 芋明月も豆明月も過ぎてしまつた、お天気がよくないので、しばらく清明の月を仰がない、月! 月! 月は東洋的日本的乃至仏教的禅宗的である。

寝ては覚め、覚めては寝る、夢を見ては起き、起きてはまた夢を見る-いろいろさまざまの夢を見た、聖人に夢なしといふが、夢は凡夫の一杯酒だ、それはエチールでなくてメチールだけれど。

※表題句は、11月6日記載の中から

―日々余話― なんで!?

今日という日は
こんなにいっぱい詰まって
なんという日なのか
いったい、ぜんたい、どうしたって!?


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腰かける岩を覚えてゐる

2009-09-16 22:51:04 | 文化・芸術
Dc0907072

Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月6日の稿に
11月6日、晴后曇、行程6里、竹田町、朝日屋

急に寒くなつた、吐く息が白く見える、8時近くなつてから出発する、牧口、緒方といふ町を行乞する、牧口といふところは人間はあまりよくないが、土地はなかなかよい、丘の上にあつて四方の遠山を見遙かす眺望は気に入つた、緒方では或る家に呼び入れられて回向した、おかみさんがソフトクフ-曹洞宗の意味!-といつて、たいへん喜んで下さつたが、皮肉を言へば、その喜びとお布施とは反比例してゐた、また造り酒屋で一杯ひつかけた、安くて多かつたのはうれしかつた、そこからここまでの2里の山路はよかつた、丘から丘へ、上るかと思へば下り、下るかと思へば上る、そして水の音、雑木紅葉-私の最も好きな風景である、ずゐぶん急いだけれど、去年馴染の此宿に着いたのは、もう電灯がついてからだつた、すぐ入浴、そして一杯、往生安楽国!

竹田は蓮根町といはれてゐるだけあつてトンネルの多いのには驚く、ここへ来るまでに8つの洞門くぐつたのである。-略-

坊主枕はよかつたこんな些事でもうれしくて旅情を紛らすことがてぎる、汽車の響はよくない、それを見るのは尚はいけない、ここからK市へは近いから、1円50銭の3時間で帰れば帰られる、感情が多少動揺しても無理はなからうじやないか。-略-

同宿の老人はたしかに変人奇人に違ひない、金持ださうなが、見すぼらしい風采で、いつも酒を飲み本を読んでゐる。

※表題句の外、
すこしさみしうてこのはがきかく -元寛氏、時雨亭氏に
あなたの足袋でここまで三十里 -闘牛児氏に
など13句を記す

―四方のたより― 学舎の会だより

「きしもと学舎の会だより」第11号-09.09.10発行-の会員への発送もほぼ了えたようである。
巻頭に置かれた岸本康弘自身の手紙形式の一文も、今回は体制転換の事もあって、ずいぶんと長くなっているが、以下全文を掲載しておきたい。

「新たな支援体制をめざして!」
ご無沙汰しておりますが、その後も益々ご清栄のことと思います。ぼくは年齢のせいで手足がしびれて痛み、体は殆ど動きません。先般いちおう帰国しました。

ぼくがネパール・ポカラで小学校を始めてから十三年になります。庶民無視の王政が倒れて三年になり、民主政治が施行されています。しかし権力争いが絶えず、いまだに選挙も行われていません。ケータイ電話が急速に普及して貧富の差が大きくなっています。資本主義社会は進展していきますが、多くの人は定職に就けず、家族それぞれの助け合いの中で生きているのが現状です。ただ、余裕のある家庭の子弟たちは外国に進出する機会を狙っており、各国大使館ではビザ発給の申請に来る人たちでいっぱいです。日本大使館も同様です。

人はそんなに富まなくても、学校である程度の知識を学び、それぞれが生み出した知恵を発揮して家族や友だちと仲良く、つつがなく暮らして行けたら、幸せにちがいありません。

その、誰もが持てるはずの幸せが、ぼくがネパールに来た当時は不足していました。絶対王制下で学校も足りなかったのです。それが三年前に国王が追い出され民主的な政治体制になり、ぼくが暮らすポカラ周辺にも公立学校や私立学校もずいぶん増えてきました。

ぼくは、こうした変化を直に肌で感じながら、現地で体調を崩して入院した日々のベッドの中で、年齢とともにますます弱りゆくぼく自身に残された寿命と向き合いつつ、今後の処し方や学舎の運営などを見直していこう、と思い始めたのでした。

たとえば、この学舎に通う子どもたちを、徐々に他の公立校へと移し、その子どもたちひとりひとりへの通学支援、無償の奨学金支給をしていく形へと移行させるのはどうか、と。これなら子どもたちも安心だし、ぼくに万一ある時-それはぼく自身の死以外のなにものでもないわけですが-も支援を継続できるかと思われます。

これからは、学舎の運営から、通学支援の形態へと移行をはかるとともに、支援体制の継続保証にも、万全を期していきたいのです。それには皆様のご支援こそ大きな励みであり、頼みともなります。
岸本学舎の発端は、ぼくが昔、足が不自由なために小学校を就学免除になり通学できなかった悔しさによるものです。九歳で父が亡くなり貧困に耐えながら、独りで必死に勉強したのです。だから、幼い子どもたちに、ぼくの経験したあの苦しみを味わせたくないし、非常に酷だと思うのです。その想いが、岸本学舎に繋がっています。

岸本学舎が誕生して丸十二年になりますが、時折、ポカラの路上で、学舎を終えてすでに結婚した女子に出会うことがあります。嬉しいこともさることながら、時の流れの速さに驚いてしまいます。

いろいろと書いてきましたが、皆様には、よく事態をご理解いただき、変わらぬご支援を、切にお願い申し上げます。ぼくも命のつづくかぎり努力してまいります。どうか、くれぐれもよろしく。
     2009年9月/岸本康弘


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