―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、12月27日の稿に
12月27日、晴、もつたいないほどの安息所だ、この部屋は。
ハガキ40枚、封書6つ、それを書くだけで、昨日と今日とが過ぎてしまつた、それでよいのか、許していただきませう。
‥ようやく、おかげで。自分自身の寝床をこしらへることができました、行乞はウソ、ルンペンはだめ、‥などとも書いた。
前後植木畠、葉ぼたんがうつくしい、この部屋には私の外に誰だかゐるやうな気がする、ゐてもらひたいのではありませんかよ。
数日来、あんまり歩いたので-草鞋を穿いて歩くのには屈託しないが、下駄、殊に足駄穿きには降参降参-、足が腫れて、足袋のコハゼがはまらないやうになつた、しかし、それもぢきよくなるだらう。-略-
※表題句の外、3句を記す
―日々余話― 鬼の撹乱?
日曜-6日-の夜から、ある作業に没頭して徹夜のまま翌日の夕刻までかかずらってしまった挙げ句、なんとか夕食を済ませ、倒れ込むようにして眠り込んだまではよかったが、朝起きてみると、身体は怠いし、頭は重い‥。昼近くには、なんだか熱っぽくなって、ゾクゾク寒気がするようにまでなってしまった。連れ合い殿が帰ってきてから熱を計ってみたら8度3分。大事をとって昨夜は早々に蒲団にもぐり込んだのだった。
今朝、起きてみると、ちょっぴり寒気が残るものの、ほゞ熱は下がったらしく、どうやら新型インフルの心配はないようで、まずは一安心。
まあ、この歳になって無理をすれば、こんな仕儀にもなろうかというもの。鬼ならぬ身であれば、とかく心身の酷使は一過性の撹乱を引き起こすものと思い知るべし。
―四方のたより― 今は昔の‥
今は懐かしの往年の舞台から「鎮魂と飛翔-大津皇子」を紹介しよう。
‘83年の春、当時大阪音大の北野徹氏との共演を得て、パーカッションと現代舞踊の出会いと副題、大阪府芸術劇場の一演目として、府立労働会館Lシアターホールにて上演したもの。
磐余の章、二上山の章の、2章8場からなるが、参考までに、当時のパンフに掲載した「磐余と二上山」の一文を引いておく。
「現在の奈良県桜井市中西部から橿原市東南部にかけての地と考えられる磐余は由緒深い土地柄であった。
それは飛鳥以前の大和の中心的地点であったかもしれない。宮跡は影もかたちもない。もちろん礎石もころがっていない。昔は水都をかたちづくっていた磐余の池も干拓されていまはただの田畑である。飛鳥を古代の陽の部分とすれば、磐余は陰の部分だ。寥々とした悲しさがある。万葉びとの瞑い悲しさがある。
日本書紀によると、朱鳥元年-686-9月9日天武天皇崩御、持統天皇称制、つづいて10月2日大津皇子の謀反発覚、逮捕、3日大津皇子、訳語田-おさだ-の舎にて死を賜う。時に二十四、とある。当時、皇子大津は磐余の一隅、訳語田に生き、死んだのである。
飛鳥から西の方、信貴山から山が切れて亀瀬の峡谷となり、それから南へ低い丘がつづいてふたたび二の峰をもった二上山が高く立ちあがる。さらに南へと大和盆地と河内平野をさえぎっている葛城・金剛の山脈がつづき遠く紀州へと連なっていく。
二の峰のうち高くてまるいほうが雄岳、低いとがったほうが雌岳と呼ばれ、この雄岳の頂きちかく、非業の死を遂げた大津の墓がある。大和盆地から仰げばふたつの馬の背のように見え、雄岳と雌岳のあいだに沈む夕陽は荘厳であり、西方浄土を思わせる。報われずさまよう魂こそこの西方浄土に導かれていくべきだったのか。
中将姫の当麻曼荼羅で知られる当麻寺は、二上山東麓まるく盛りあがる麻呂子山の下にある。横佩の右大臣藤原豊成の娘と伝えられる中将姫は、天平年間に当麻寺へ入山し、生身の如来を拝することを誓願し、一夜にして蓮糸で曼荼羅を織りあげた、という。
折口信夫の想像力はこの二者を結びつけ架橋した。「死者の書」である。
作者の霊妙な招魂のわざによって、物語のなかに現実的な、あるいは夢幻の姿を現し登場する大津や中将姫の遊魂が、鎮められ昇華され、森厳なレクィエムとなって、古代びとの面貌を現前させ、古代を呼吸する稀有の一書を成している。」
林田鉄、往年の仕事-「鎮魂と飛翔-大津皇子-」磐余の章-Scene-1
林田鉄、往年の仕事-「鎮魂と飛翔-大津皇子」磐余の章より
「刑死」-大津皇子、謀反発覚として死を賜う、時に二十四。
なにもない
なにもない磐余の地
空のなかで鳥が死んだ
黒い獰猛な空から
黙って、残酷に
彼の人は墜ちた
-読まれたあとは、1click-