あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

子宮のなか

2017-04-25 12:19:19 | 
外国では、妊娠初期も妊娠中期も、中絶された赤ちゃんはそのままミキサーにかけられるようです。
生きたままかどうかはわかりませんが、その赤ちゃんスープは、排水溝へと流され、下水と交じり合います。
わたしは薄暗い下水道へとひとりで下りてゆきました。
そこには、赤ちゃんが拡がっておりました。無数の赤ちゃんが、わたしを見詰めておりました。
わたしは誘われるように、赤ちゃんの海へ入って行き、赤ちゃんのなかを、游ぎました。
わたしは無数の赤ちゃんと一体となり、母の胸にいだかれる日を、待ち望みました。

ここは大いなる我が愛する母の子宮です。

そんな、夢を見ました。
あなたの子宮のなかで。






前駆陣痛

2017-04-25 11:19:44 | 
わたしの赤ちゃんは、死んでしまったのかしら。
声が聴こえないの。
あんまり苦しくて。
言葉を喪ったの。

わたしはたぶん、過去に赤ちゃんを堕ろしたことがあるのよ。
今わたしのお腹に赤ちゃんがいるの。
わたしはたぶん、過去に堕胎手術を行う医師だったことがあるのよ。
今わたしの子宮で赤ちゃんが眠っているの。
わたしはたぶん、ママに堕ろされたことがあるのよ。
今わたしは、産みの苦しみを受けている。

わたしはあなたを愛してるの。
わたしはあなたを自分のように愛してるの。

わたしの張って傷む胸を、あなたは求めている。
わたしの子宮と肉を引き裂いて、あなたが脱皮することができたなら。
あなたはわたしを離れ、飛んで行ってしまう。
わたしはたぶん、あなたを追い掛ける。
あなたを自由にしたいの。
わたしに拘束を望んだあなたを。
わたしは自由にしてあげなくてはならないの。

さあ自由の世界へ、戻りましょう。
ここにいては、死んでしまうから。

あなたの愛が、わたしのなかで眠っている。
目を醒ますまで、一緒に眠りましょう。








映画「拘束のドローイング9」もののあわれと悲痛の愛

2017-04-25 03:42:26 | 映画
ではBjörk「Black Lake」その拘束の愛は、いまも子宮のなかに。に続いて、さっき観たビョークのその別れてしまったパートナーである現代美術家のマシュー・バーニーが監督を果たし二人が共演した 2005年のカルト映画『拘束のドローイング9』を紹介したいと想います。

マシュー・バーニー Matthew Barney 「拘束のドローイング」「クレマスター」から観る独自の現代美術感覚

「拘束のドローイング」(The Drawing Restraint )といわれるシリーズも1980年代から続いている連作と言われ、最新の「拘束のドローイング9」は日本の捕鯨船をテーマにしており、世界に先駆けて日本の金沢21世紀美術館で初公開されました。



世紀のアーティストカップルが紡ぐ愛の神話

21世紀の現代美術シーンにおいて世界的にも突出した存在、マシュー・バーニー。
2002年、『クレマスター・サイクル』で圧倒的な賞賛を浴びたバーニーは、
実生活のパートナーであるミュージシャンのビョークとともに繰り広げた
愛の「変容」をめぐる最新作『拘束のドローイング9』







Drawing Restraint 9 (Full Movie)








現代美術とかほとんど触れることができていないので、期待して観たのですが、結構前半はだれてしまいました。
でも後半からとても観せます・・・
あえて言っときますが、かなりグロテスクなシーンが重要なところに入っています。

先に詳しい内容が知りたい方は拘束のドローイング9こちらの方のブログをご覧ください。

非常に、私には血の気がさーっと引くくらいの観ることが苦行かと想えるほどのきっついシーンがあったのですが、それでも、観終わった後はも、たまらんな、っていうくらいの美しい映画でした。

また二人が悲しい別れ方をしたあとに観たので余計に来るものがありましたね。なんて悲しいお話なのかなと。












も、たまらんな、っていうくらいエロティックでもの哀しくてやばいシーンです。観てるのがほんまきっつかったっす。







美しい、さすがビョークを変えてしまった男マシュー・バーニーです。映画を観るというより、美術作品として鑑賞しました。




ここからネタバレになります。





この話は何をテーマにしたかというのを私なりの感想を言います。
この映画は、捕鯨船に乗る人間たちによって、無念にも解体されてゆく”鯨たち”の悲痛な哀しみを表現しているんだと想いました。



2005年に発表された「拘束のドローイング9」(MATTHEW BARNEY DRAWING RESTRAINT 9)の面白いところは、いち早く日本の捕鯨船をテーマにした映像作品であるのですが、捕鯨や日本の食文化に関して否定的ではなく、むしろ肯定的であるところも興味深いです。
マシュー・バーニーは日本の捕鯨という、「巨大な生物を捕獲する為の閉鎖された文化のある船」という部分に注目してアート作品を作り上げており、日本の捕鯨文化そのものが後にアメリカから攻撃される対象になっているとは皮肉なものです。




と書かれているので、マシュー・バーニーは決して非難の想いで映画を撮ったわけではないのですが、テーマは間違いなく「鯨たちのかなしみ」だと想います。
芸術作品は善悪を超えねば昇華できませんので、否定ではないんだけれども、この映画は観る人によっては大変苦しい映画になるのではないでしょうか。

ビョークとマシュー演じるのはこれから婚儀を挙げようとする夫婦の役なんですね。
そのめでたいはずの二人がとんでもないことになってゆく。

わたしは観終わって想いました。愛し合う二頭の鯨たちが、捕鯨船に捕まってしまい、解体されて人間たちに食べられてしまいました。
その二頭の鯨たちの魂が、無念のあまりに人間の姿をとって、婚儀を挙げようとしたのです。
が、それでも忘れられない無念さを、互いに解体し合ってその互いの肉を食べ合うことによって納得しようとしたのではないかと。
そこには「わたしたちは他者に解体されて食べられたくはなかった」という鯨たちの叫びが聴こえてくるようです。

なんて悲しい夫婦なのか。涙が出そうにもなりましたが、そういう悲しみよりも、”悲痛”なんですよね。

この映画を観終わったあとに良かったらBjörk「Black Lake」を聴いてみてください。
その悲痛が繋がっている気がします。




追記:4月26日
一日が経ってもう一度観ました。二回目だからか、お酒を入れていたからか大分楽に観れました・・・。

二回目には、また新たなる発想が浮かびました。
日新丸は捕鯨母船であると同時に、一頭の鯨として表現しているのではないかと想ったのです。
日新丸が、別の船から深い傷を負わされた過去がある、そしてもっと深い傷はその前に・・・という話を裏千家の大島宗翠がふたりに話しているシーンがありましたね。
日新丸の受けた傷と、鯨が日新丸から受けた傷を重ねて表現しているのではないでしょうか。

そしてふたりが婚礼衣装を着させられるときに、変な濡らした白く長細い帯を最初に着けられますが、あれって臍の緒なんじゃないかと想いました。
ということはふたりは母鯨のなかにいた二頭の子鯨ということになります。
スピリチュアルでいうとツインソウルみたいな、そんな深い繋がりのある二人を表現しようとしているように見えます。
そう想うとBjörk「Black Lake」の出だしの歌詞
「私たちの愛は子宮だった
だけど私たちを繋いでいた拘束は壊れてしまった」
という部分も、やっぱりふたりは一つの子宮のような深い愛に繋がれた存在だったということを表しているように想えてきます。

なぜビョークとマシューは実物の鯨を一度たりとも出さなかったのでしょう。
芸術作品に実物を出すとよくないというのはわかりますが、互いにその肉を食べ合うあの肉さえも、あれは真っ赤な鯨肉ではなくて白い鮪か何かの肉のようでした。彼らは実は捕鯨に対してひそかに哀しんでいるのでしょうか・・・。

自分は鯨の肉は食べたことがありませんが鯨の油は化粧品などにも使われているようです。
捕鯨に反対される方は化粧品などの成分もチェックしたほうが良いですね。化粧品や洗剤なども結構動物性油脂が使われています。


ものすごく、奥の深い悲しい映画だなと感じさせられて、この映画を元にちょっとさっき書いたのでよかったら読んでみてください。
いさな







Björk「Black Lake」その拘束の愛は、いまも子宮のなかに。

2017-04-25 02:44:47 | 音楽
今日(24日)は早朝に寝て夕方に起きてからずっとBjörk(ビョーク)の2015年のアルバム「Vulnicura(ヴァルニキュラ)」を聴いて、そのLiveをyoutubeで観て、それでさっきBjörkの出演した「拘束のドローイング9」という映画を観終えたところです。

静かなカタルシスに今も浸っている感じなのですが、まずはBjörkの「ヴァルニキュラ」というアルバムについて記事を書きたいと想います。







自分はBjörkは16歳の頃に好きになって4作目の「ヴェスパタイン」までのアルバムをよく聴いていました。
想い出のたくさんある大切なアーティストなのですが、それでもヴェスパタイン以降はちょっと離れてしまった感じで2004年からアルバムをろくに聴いていなくてそれが悲しいなと感じていました。

ところが今日たまたまyoutubeでBjörkの「Black Lake」っていう曲のPVを観まして、あれこんないい曲を作ってたのかと感動してこの曲の入っているアルバム聴いてたかなと想って「ヴァルニキュラ」を聴いてみたら通しでLastfmで一回聴いていました。全部の曲一回だけ聴いて「Black Lake」だけ2回再生ってなってたので、当時もこの曲は良いと想っていたようですが、すっかりその後聴けていませんでした。






アルバムについて調べてみると、「ヴァルニキュラ」はビョークの13年間連れ添ったパートナーである現代美術家のマシュー・バーニーとの別離を軸に表現した”ハートブレイクアルバム”と称していて、パートナーと別れる9ヶ月前から時系列順に辿っているという。
生まれ始めた不安-別れ-癒えというプロセスを経ていくのが素晴らしい。

1曲目「ストーンミルカー」は別れの9ヶ月前を表し、
2曲目「ライオンソング」は別れの5ヶ月前、
3曲目「ヒストリー・オブ・タッチズ」別れの3ヶ月前、
4曲目「ブラック・レイク」別れの2ヶ月後、
5曲目「ファミリー」別れの6ヶ月後、
6曲目「ノットゲット」別れの11ヶ月後を表しているようです。

自分が最も感動したのは別れて2ヵ月後に作った「Black Lake(黒い湖)」なのですが、この曲を貼りましょう。



björk: black lake





ダンサー・イン・ザ・ダークの曲に通じるようなものすごい内省的な曲で重いですがカタルシスが起きている非常に美しい曲です。


Black Lake - Björk日本語訳歌詞



私たちの愛は子宮だった
だけど私たちを繋いでいた拘束は壊れてしまった



という出だしがすごくいいですね。わたしたちの愛は一つの子宮で拘束されていた関係だったという、一人の母親の子宮のなかで手を繋ぎあっている双子の胎児のようなイメージが浮かびます。
よくも知らないのにビョークとマシュー・バーニーの愛ってものすごい深いだろうなって感じていた自分がいました。
なんでかというとビョークの音楽が悪くなって行った(良い意味では実験的な音楽になって行った)のはマシュー・バーニーと知り合ってからで、音楽性(ビョークの持ち味)をここまで変えてしまうマシュー・バーニーという男は凄い男だな、と想ったからです。
そこにある愛が深くないわけないだろうと。
だから知りもしないのに今度のビョークの愛した男は凄いんだなっていうのは解っていました。

ビョークの良いものを180度変えてしまった男と言える。
だからなんか、みんなのビョークをおまえ一人で独り占めしたのか、みたいな気持ちでいました。
まあ二人が愛し合ってるならいいけどお?という感じであたたかく見守ろうと想っていました。

そういう気持ちがあったんで、ビョークがマシューと別れてわたしの本当に感動する曲をまた作ってくれるようになった、っていうのは色んな意味で悲しいですね。
自分はどこかでビョークを連れ去ったマシューという男に嫉妬していたのかなと思えてきます。

別れたことを知る前に感動した曲なので、わたしはマシューと共鳴しているビョークを受け容れられなかったのでしょうか。

こんなに悲しく、つらい曲で我々を感動させるビョークはやっぱりマシューを本当に愛していたんだな、今も愛しているのかしら、と胸がぎゅっと切なくなります。

二人のあいだには娘が一人居て、親権問題などの泥沼な関係にあるのに、その表現はこんなにも美しい。
いや、もう最悪な泥沼だからこそ、美しい曲が出来上がったのでしょう。
そんな、気がします、ぼくは。