布団の中でふと思ったんですが、Radioheadの「A Moon Shaped Pool」は「Daydreaming」を除いては、パブロ・ハニーの空気感とよく似てるのではないかと。
カタルシスを感じられない未完成な儚さを持ち、それでいて寂しく、未完成ゆえの美しさがある。
創作、表現の世界というのはカタルシスに向かっていることが多いと思うのですが
完成されて完結していることが作品において良いこととは決まらないのだな、と改めて感じています。
夭折する人間が美しいように、作品もまた未完成であることでしか表せない美しさがある。
原点に戻ったというより、単純にクオリティが下がったんじゃないかと思うのですが、でもそれが全体的に下がってるというかそこに入ってるすべてが下がったのではなくて、曲のクオリティは下がったが、作り手の感性が上がって感情は今まで一番深く最高のものであり、よって最高傑作とする人が多いのではないかと。
なんか色々考えてたけど忘れてもうた。パブロ・ハニーの音楽が邪魔して忘れてもうた。
似てるといってもパブロ・ハニーと明らかに違うところは勿論あります。
クオリティがパブロ・ハニーと同列だと言ってるわけではありません。
明らかに違うところの一つに、聞き手の安易な共感を避けたがっているような閉じこもったものを「ア・ムーン・シェイプト・プール」には感じる。
自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」を受け入れがたいと感じているのは、そこにある孤独と悲しみの深さに自分が耐えられないからだと思ったんです。
クオリティが下がったから受け入れがたいのではなく、クオリティも素晴らしいと感じる「Daydreaming」も受け入れがたいので、自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」に感じる孤独と悲しみがあまりに大きいがために、それを無意識にも受け入れることを拒んでいるのではないかと思ったんです。
悲しすぎて、受け入れ難い。それはカタルシスを感じられないからなんです。
カタルシスとは、それの受け手がそこにある重苦しいものを自分の力によって、超えさせること、という意味があります。
自分がそれを観たり聴いたり読んだりして、苦しみ悲しみを超えられた何かを得たという実感があるなら、そこにはカタルシスが起きています。
でも今のところ、私は「Daydreaming」を聴くたびに悲しみ打ちのめされ、深い喪失を感じ、また「終わり」の感覚さえも感じている。
「A Moon Shaped Pool」を聴き終わるたんびに目の前が真っ白になっている。
来ました、パブロ・ハニーの11曲目の「Lurgee(ラーギー)」という曲です。好きな曲です。
この曲の感じが空気感が特に「ア・ムーン・シェイプト・プール」に通じているような気がする。
寂しく美しいが未完成で、何が残るかというと何も残らないような感じでふわつきながら消えていくような曲。
これが今聴いてみると結構激しくなってくる展開になってたんだなと思うんですが自分の脳髄内で回しているこの曲はもっと静かで寂しげな感じだったんですよね。
「 Lurgeeはイギリス英語で病気のこと。多分若者がよく使う「病む」とか「鬱っぽい」くらいのニュアンス」という意味があるんですね。
載ってる歌詞を読んでみても、ああやっぱり別れと喪失の曲なんですね。
この曲にも何か終わりを感じさせるものがあります。
でもこの曲のほうがまだ救いというか余裕のようなものがずっとある感じだな。
Ful Stopは最初聴いたとき妙に陳腐さを感じたが、聴くほどこれはすごく良くなってくる、ダークな曲だな。
聴いてみるとあんまりパブロ・ハニーの全体的な空気感と今作は似てへんかった。というか全然違うな。やっぱりラーギーだけが少し似てるのかな。
受け入れたくないために、無理に未完成であると思いたがってるのだろうか。
これで完結はしてほしくないと、そう思いたいんだろうか。
Daydreamingを聴き終るたび、世界の終わりを感じる。
カタルシスを感じられない未完成な儚さを持ち、それでいて寂しく、未完成ゆえの美しさがある。
創作、表現の世界というのはカタルシスに向かっていることが多いと思うのですが
完成されて完結していることが作品において良いこととは決まらないのだな、と改めて感じています。
夭折する人間が美しいように、作品もまた未完成であることでしか表せない美しさがある。
原点に戻ったというより、単純にクオリティが下がったんじゃないかと思うのですが、でもそれが全体的に下がってるというかそこに入ってるすべてが下がったのではなくて、曲のクオリティは下がったが、作り手の感性が上がって感情は今まで一番深く最高のものであり、よって最高傑作とする人が多いのではないかと。
なんか色々考えてたけど忘れてもうた。パブロ・ハニーの音楽が邪魔して忘れてもうた。
似てるといってもパブロ・ハニーと明らかに違うところは勿論あります。
クオリティがパブロ・ハニーと同列だと言ってるわけではありません。
明らかに違うところの一つに、聞き手の安易な共感を避けたがっているような閉じこもったものを「ア・ムーン・シェイプト・プール」には感じる。
自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」を受け入れがたいと感じているのは、そこにある孤独と悲しみの深さに自分が耐えられないからだと思ったんです。
クオリティが下がったから受け入れがたいのではなく、クオリティも素晴らしいと感じる「Daydreaming」も受け入れがたいので、自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」に感じる孤独と悲しみがあまりに大きいがために、それを無意識にも受け入れることを拒んでいるのではないかと思ったんです。
悲しすぎて、受け入れ難い。それはカタルシスを感じられないからなんです。
カタルシスとは、それの受け手がそこにある重苦しいものを自分の力によって、超えさせること、という意味があります。
自分がそれを観たり聴いたり読んだりして、苦しみ悲しみを超えられた何かを得たという実感があるなら、そこにはカタルシスが起きています。
でも今のところ、私は「Daydreaming」を聴くたびに悲しみ打ちのめされ、深い喪失を感じ、また「終わり」の感覚さえも感じている。
「A Moon Shaped Pool」を聴き終わるたんびに目の前が真っ白になっている。
来ました、パブロ・ハニーの11曲目の「Lurgee(ラーギー)」という曲です。好きな曲です。
この曲の感じが空気感が特に「ア・ムーン・シェイプト・プール」に通じているような気がする。
寂しく美しいが未完成で、何が残るかというと何も残らないような感じでふわつきながら消えていくような曲。
これが今聴いてみると結構激しくなってくる展開になってたんだなと思うんですが自分の脳髄内で回しているこの曲はもっと静かで寂しげな感じだったんですよね。
「 Lurgeeはイギリス英語で病気のこと。多分若者がよく使う「病む」とか「鬱っぽい」くらいのニュアンス」という意味があるんですね。
載ってる歌詞を読んでみても、ああやっぱり別れと喪失の曲なんですね。
この曲にも何か終わりを感じさせるものがあります。
でもこの曲のほうがまだ救いというか余裕のようなものがずっとある感じだな。
Ful Stopは最初聴いたとき妙に陳腐さを感じたが、聴くほどこれはすごく良くなってくる、ダークな曲だな。
聴いてみるとあんまりパブロ・ハニーの全体的な空気感と今作は似てへんかった。というか全然違うな。やっぱりラーギーだけが少し似てるのかな。
受け入れたくないために、無理に未完成であると思いたがってるのだろうか。
これで完結はしてほしくないと、そう思いたいんだろうか。
Daydreamingを聴き終るたび、世界の終わりを感じる。