あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

生の律法

2016-07-12 01:25:21 | 存念
久々に目が痺れるほど涙が溢れた。
象牙を取るのに象を殺していることは前から知っていましたが
象の顔が原形をとどめていないほどぐちゃぐちゃにされたまま野に捨てられている写真を見て
また下の写真を見て麻酔銃から目を覚ましたときの凄まじい痛みに苦しみながら顔を失った象がひとりで死んでいくのを想像して言いようのない悲しみに包まれました。














「牙を切るのではなく、
麻酔銃で麻痺させてから、鼻の根本からえぐり獲るのです。」
http://ameblo.jp/ojyo2010/entry-11589723034.html



「象牙自体を輸入して、さらに象牙細工までを輸入しているのは残念ながら日本だけである。」
http://amour918.blog.fc2.com/blog-entry-1373.html





食肉、毛皮、皮革、犬猫の殺処分、動物実験、象牙や漢方薬「熊の胆」など動物を拷問して生産する商品、競馬、ウール、フェザー、アンゴラ、ダウン。

ほとんどの人間が動物に拷問のような苦しみを与えることに関わっています。

私は思う。
数え切れない膨大な動物たちの苦しみは人間たちにどのように返ってくるのだろうかと。

どうやって?ひとりひとりがどのような方法で返していけるのだろうか。

西洋医薬で痛みを和らげ、病気を治すことはできても、その薬を作り出すのにどれだけの動物たちが実験による拷問の苦しみを受けているだろう。
彼らに苦しみを与え続けることは果たして人間が苦しむ病気に関係していないと言えるだろうか。



だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
(マタイによる福音書 7章12節



とイエスは言ったが、これは人だけに限ることではないだろう。

何故なら多くの人間が動物を苦しめることにも同じく罪悪感を持つからだ。

罪を感じるということは、罪は罰されるものであるという感覚を同時に感じるということである。

罪悪感を持つこと自体が、自分はいつか罰されるだろう、というある危機感を常に持っていることと言えると思う。

人間の理性というものは動物的な本能と同じものであると私は思っている。

それは生物が生きるうえで必要不可欠な性質と言える。

理性が備わっていないのなら、生物は滅びの道を辿るしかない。

理性に背き種の好き勝手に生きた結果、やがて生態系は壊れその種も滅びます。

イエスの教えは宗教的なものでもなんでもなく、ただ生物がこの地上に生き続けるのに必要な教えばかりだった。

争いや、人が人を裁くのをやめ、人を赦し、どんな他者をも兄弟のように愛しなさいと教えた。

それをしなければ、人間はいずれ滅ぶということを知っていたからである。

イエスの教えに背き続ける多くの人間たちによって今まさに人間は滅びへと向かっているようだ。


「してもらいたいことをしなさい」という教えは、したことが自分に返ってくるからだ。


どのように返ってくるかはわからない。
しかしそれは必ず返ってくるだろう。
それが生物が滅びきる前に気づくことのできる生が滅びないための生の律法である限り。


















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