山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
年が明け、柏木は衰弱の一途を辿っていた。病床で柏木は人生を振り返る。自分が密通の罪を引き受けていま死ねば、女三の宮もかりそめなりとも哀れをかけてくれ、光源氏の怒りも解けるのではないか。悶々と悩み、柏木は密通を手引きした女房・小侍従(こじじゅう)を介して、死を覚悟した歌を女三の宮と交わす。
その夕方、女三の宮は産気づき、翌朝に男子・薫を産んだ。産養(うぶやしない)が盛大に行われるが、光源氏は内心では喜べない。女三の宮は「このついでに死にたい」と思い出家を懇願する。光源氏は一瞬、好都合だと思うが残念な思いも交錯して許さない。だが結局は、娘愛しさに下山した朱雀院が出家の儀式を断行した。その後、物の怪が出現し、光源氏はこの事態も六条御息所の死霊の仕業だったと知った。
柏木は女三の宮の出産と出家を聞くと危篤状態となり、見舞いに訪れた夕霧に光源氏へのとりなしと遺していく妻(落葉の宮)への配慮を頼む。親族らが嘆くなか柏木は亡くなり、女三の宮もさすがに涙を流すのだった。
三月、薫の誕生五十日(いか)の祝いが行われた。光源氏は初めて薫を抱き、その顔立ちと無垢な笑顔を見て、父親は柏木と確信しつつも柏木を憐れむ気持ちになる。自らの老いも実感され、光源氏は涙を流す。
いっぽう夕霧は、親友の死を悲しむなかで密通の事実を推理するに至る。夕霧は遺族らを弔問して共に柏木を悼むが、故柏木の妻・落葉の宮の女房たちは、早くも女主人と夕霧の再婚を期待するのだった。
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「病は気から」。まるでそのことわざをなぞるようだ。「源氏物語」の柏木は光源氏に「いけず」を言われたことがきっかけで病気となり、果ては亡くなった。単純に言えば、精神的ストレスによって命を落としてしまったのだ。現代人にとっても他人ごとではない。ストレスが実際に体に悪いことは、むしろ近年の科学でますます明らかになってきている。その実例らしきものは、平安時代の実在の人物についても、いくつも確認できる。
驚くのは、一条天皇の例だ。側近・藤原行成が、天皇自身から聞いたこととして、日記「権紀」に記している。寛弘八(1011)年五月、天皇はまだ三十二歳の壮年だった。軽い病にかかったものの、それは快方に向かっていた。だがその矢先に、一条天皇は自分の病状に関する易占の結果を聞いてしまう。「豊(ほう)の明夷(めいい)」。卦自体は決して悪くないものだが、気味が悪いのは、村上天皇(926~967年)や醍醐天皇の崩御の折にも出た卦だということである。
実はこの占いは藤原道長が学者に命じて行わせたもので、本来は天皇の耳に入れるはずのものではなかった。だが、あまりの結果に道長は動揺、天皇が臥す夜御殿(よるのおとど)の隣の部屋で、僧とともに声を上げて泣いてしまった。帝は何事かと几帳のほころびから覗き、全てを知ることになった。その結果、病状は急変。一か月後には本当に亡くなってしまうのだ。占いは当時、一種の科学と信じられており、天皇には死の宣告となった。死ぬと信じたことで一条天皇は命を奪われたのだ。
今も昔もストレスは怖い。藤原道長が栄華を獲得する道とは、大勢の人にストレスを与える道でもあった。ストレスよりも怖いのは、人にストレスを与える人間である。