手芸をしてる途中で他の用事をして戻ったら、右指にしてた指貫がない。
外した記憶がなかった。洗濯してたから、
その時指から抜けて洗濯機に落ちたかもしれないと思って見たら、
脱水された洗濯物と一緒にそれはあった。
今回、指貫を外した記憶がなかった事をちゃんと覚えていた。
手芸していて、使っていた待ち針や糸を、
「いま、待ち針を抜いて針山に刺した」
「いま糸を針箱の引き出しに入れた」と、
いちいち意識的になる練習をしていたからだ。
手芸をする前とした後で待ち針の数が減っていることがあって、
周り中を探し回る羽目になる。探すのが面倒くさい。
以前は「コレコレを覚えていよう」という思いを、
“意識的に”する練習をしたことがあるけど、
それでは効果がなかった。
それが「指貫を今外してドコソコに置いた」と鉄道員の指差し確認みたいに
声は出さないけど、いちいち意識的に思う、
ということを始めていたので、
「指貫を外してドコソコへ置いた」、という記憶がまるでなかったから、
外してないのに外れてしまったんだなと思って、
探したら、すぐに見つけることが出来た。
こんなこと些細なことだけど、私には大きな出来事だった。
「これを覚えていよう」という思いでは効果が無く、
「指貫を外してドコソコに置いた」と自覚的に思うことは効果があった。
『見ようとすると見えない』という不思議な粒子の振る舞いがある。
眠ろうとすると眠れない。忘れようとすると忘れられない。
覚えていようとすると忘れる。
見る、眠る、忘れる、覚える、この4つとも(行動)じゃない。
自然な(思い)だ。
「~しよう」は行為・行動の意志を表わす言葉だから、
行動じゃない「覚えよう」では覚えられない。
「忘れよう」「眠ろう」「覚えよう」という言葉はこの世にあるけど、
自然に忘れることは忘れる、自然に眠くなったら眠る、自然に覚えてたら覚えてる。
けど、覚えていたかったら、
「指貫をドコソコへ置いた」という言葉を意識的に思うこと。
「それを覚えよう」という顕在意識は要らない。
見ようとすると見えない、という粒子の振る舞いと、
意識の振る舞いは同じだからかなと思う。