或ることを同時間に(時間的)、観測することと、観測しないこと(空間的出来事)は出来ないので、
細かくいえば実験は不可能だ。
あくまで、「そうではないか」止まりかと思う。
そしてまた、観測しない、をやってみるという実験は出来ない。
何故なら、観測しない、ということは「無」ではないから。
「観測しない」という意識が「在る」ので、
それがある限り、それは対象に影響を与えてしまうということになるはず。
昨日書いた文章からだけど、コレを書いて浮かんだ・・
ひとの行為や物を「ソレはこういうこと・モノ」と表現することはあるし、
そういうような一つの解釈を選択しないことには、人間は一歩も行動することは出来ないのだけど、
(そのものを食べられるものと無意識的にでも解釈しているから、食べるという行動に移れるので)
実際の事実でいうと、
特にひとの行為・行動を「ソレはこういうことである」と観測した場合と、
そのように観測しない場合とはその後の成り行きを比較検討することができない。
同時に観測することは出来ないから。そして、
観測・選択しなかった意識は現象化しないから、
想像の世界でしか言えない。
こう考えたんだけど、違っているかな?
山岸さんがどこまで行っても「こうだ」と言い切れないものだ、と云ったのは、
実に科学的に立証されていることなのかと思ったんだけど。
こんなふうに頭に浮かぶことをここに綴っているけれど、
この文に限らず間違えている事もあるかと思う。
変だな、こうじゃないかな、というような考えがあったら、
是非是非コメントでもなんでも下さい。
細かくいえば実験は不可能だ。
あくまで、「そうではないか」止まりかと思う。
そしてまた、観測しない、をやってみるという実験は出来ない。
何故なら、観測しない、ということは「無」ではないから。
「観測しない」という意識が「在る」ので、
それがある限り、それは対象に影響を与えてしまうということになるはず。
昨日書いた文章からだけど、コレを書いて浮かんだ・・
ひとの行為や物を「ソレはこういうこと・モノ」と表現することはあるし、
そういうような一つの解釈を選択しないことには、人間は一歩も行動することは出来ないのだけど、
(そのものを食べられるものと無意識的にでも解釈しているから、食べるという行動に移れるので)
実際の事実でいうと、
特にひとの行為・行動を「ソレはこういうことである」と観測した場合と、
そのように観測しない場合とはその後の成り行きを比較検討することができない。
同時に観測することは出来ないから。そして、
観測・選択しなかった意識は現象化しないから、
想像の世界でしか言えない。
こう考えたんだけど、違っているかな?
山岸さんがどこまで行っても「こうだ」と言い切れないものだ、と云ったのは、
実に科学的に立証されていることなのかと思ったんだけど。
こんなふうに頭に浮かぶことをここに綴っているけれど、
この文に限らず間違えている事もあるかと思う。
変だな、こうじゃないかな、というような考えがあったら、
是非是非コメントでもなんでも下さい。