やりたいと思ってたことがやれなくても、
すぐに諦めたり、忘れたり、また次だと思えたり・・・するというのは、
心がそこに留まってないこと。不平不満状態が続かないこと。
やりたいことが実現しなかった時に、
やりたいという気持ちを持ち続けていると、
不満に思う、ということになる。
その現象が終わった後も長い間“やりたかったのに”と
思い続けているのは仏教で言う執着というのかな。
すると、無執着っていうのは、
やりたいことを“しないという自由意志”が働く場合の心の状態といえるんだろか。
執着状態の心って、
どんどん流れる川に舟が抗ってるみたいなもんで、
済んでしまった過去のそのことを思い続けている状態。
心が既に今ここに無いものを求めている状態。
無いものを求め、無い無いと言っているみたい。
幸福が心が満ち足りている状態であるなら、
執着状態の心っていうのはその反対なのかもしれない。
なるというなり方でなる幸福って、
在るものが在り、無いものは無いということが
心底わかっているという心の状態になること。
「しないという自由意志」は
在る事実、在る現象に則する自由な意志といえる。
実際、現象は在るということしか無い。
無い現象は無いもんね。
それならそれで、という心の状態だね。
すぐに諦めたり、忘れたり、また次だと思えたり・・・するというのは、
心がそこに留まってないこと。不平不満状態が続かないこと。
やりたいことが実現しなかった時に、
やりたいという気持ちを持ち続けていると、
不満に思う、ということになる。
その現象が終わった後も長い間“やりたかったのに”と
思い続けているのは仏教で言う執着というのかな。
すると、無執着っていうのは、
やりたいことを“しないという自由意志”が働く場合の心の状態といえるんだろか。
執着状態の心って、
どんどん流れる川に舟が抗ってるみたいなもんで、
済んでしまった過去のそのことを思い続けている状態。
心が既に今ここに無いものを求めている状態。
無いものを求め、無い無いと言っているみたい。
幸福が心が満ち足りている状態であるなら、
執着状態の心っていうのはその反対なのかもしれない。
なるというなり方でなる幸福って、
在るものが在り、無いものは無いということが
心底わかっているという心の状態になること。
「しないという自由意志」は
在る事実、在る現象に則する自由な意志といえる。
実際、現象は在るということしか無い。
無い現象は無いもんね。
それならそれで、という心の状態だね。