海と空

天は高く、海は深し

詩篇第十篇注解

2006年01月20日 | 詩篇註解

詩篇第十篇

なぜ、主よ、あなたは遠く離れて立たれるのか。
なぜ、あなたは身を隠されるのか。苦しみ悩む時に。
悪しき者どもは驕り高ぶって、柔和な人をしいたげる。
どうか彼らのたくらむ罠に自らが捕らえられるように。
悪しき者は自分の欲望を誇り、貪る者を祝福して主を侮る。
悪しき者は鼻を高くして、主を求めず、
彼のすべての企てに神はいない。
あなたの裁きは彼から離れて遠く、
彼は自分に逆らうすべての者を追い散らす。
そして、彼は心の中で言う。
「私は揺らぐことなく、世々に災いに遭うこともない」
彼の口は呪いと欺きと脅しで満ち、
彼の舌には毒と悪が隠れている。
彼は村里のはずれに潜み、
隠れたところで罪なき者を殺す。
彼の目は不運な者を探し、ライオンのように茂みに隠れて待ち伏せる。貧しい者から奪い取るために。貧しい者を網に捕えて引いてゆくために。
貧しい者は砕かれ屈まり、そして、その惨めな者は眼を閉じて倒れる。悪しき者は心につぶやく。
「神は忘れられた。神はその顔を隠して決して見ることはないだろう」


立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい者を忘れないでください。
なぜ、悪しき者は神を侮り、心でつぶやくのか。
罰せられることはないと。
まさに、あなたは悩みと苦しみをご覧になり、御手に引き受けて顧みられる。
不幸な人はあなたに自分をゆだねる。
あなたがみなし児を助けられますように。
悪人の腕をへし折り、彼の隠された悪をことごとく罰せられますように。
主は永遠に王。
異邦の民は主の国から消え失せるでしょう。
あなたは柔和な者の切なる願いを聴き、彼らの心を強められ、みなし児と虐げられた者のために裁き、耳を傾けられる。
この地で再び人がもう脅かすことのないように。

 

第十篇注解   主よ、悪人どもの腕をへし折られよ

前第九篇が神の正義が実現されたことに対する、感謝の祈りであったのに対し、この篇は、第七篇と同様に、正義を求める祈りである。特にキリスト者にとって、正義の実現こそ切望するものである。

この詩篇第十篇でも、詩人は様々な苦難に遭遇している。おそらく、この詩の背景には、ユダヤ人のバビロン捕囚などの一種無政府的な状況があったのであろう。先の第二次世界大戦におけるホロコーストのような時代的な背景があったことが想像される。そうした状況にあっては、剥き出しの暴力がはびこる。戦争下における奪略、暴行といった事態もそうである。

その意味では、この詩篇が歌っているような状況は、現代においても、決して無縁ではない。先年の旧ユーゴにおける「民族浄化」などにおいても、この詩で描写されているのと同じような事態が再現されたに違いないのである。人間の悪は、その時期と状況さえそなわれば、いつでもどこでも発現する点において、二千年三千年という時間は、人間性が改革されるためには、決して長くはない。というより、人間の本性は変わらないのかもしれない。テロ行為は現代においても日常茶飯事である。彼は、物陰に身を潜めて、何の罪もない者を、狩を楽しむように銃で狙い撃ちする。そして、心に神はいないと言う。人間の自然状態は、ルソーが言ったような理想郷ではなくて、暴力のはびこる世界である。そのような状況下で、詩人は、神に正義の実現を祈る。

正義を教えることについては、今日の文科省の審議会も学校教育もまったく無力である。まず国家という観念が希薄である。神がいない。正義の観念も教えられていない。あるのは、剥き出しの欲望である。小手先の知識教育は過分に教えられ、多くの小者を育成する教育には事欠かない。しかし、「正義」という教育の根幹が教えられていない。その結果、現代日本社会には、多くの企業と個人の詐欺と腐敗にまみれている。この哀れむべき状況について、国民は深く考えてみるべきである。

悪に対して正義を実力によって行使するために国家や共同体が形成された。国家の法律による刑の執行は、正義の実現という使命をもっている。神に代わって、国家は地上において、その正義を実現するのである。

しかし、神の意思を執行する代理人であるべき国家そのものが悪を実行するとき、もはや、人間的な救済は不可能である。北朝鮮を見よ。歴史的に見ても、国家がいつも正義の代理執行人であるとは限らない。むしろ、多くの国家は腐敗し堕落した。そのような状況においては、法律も、裁判も「正義」の実現には何の役にも立たない。だが、これほどに絶望的な状況のときにも、詩人は「神は困難と苦悩に必ず気づかれて、顧みられる」ことを信じ、自分自身をすべて、神にゆだねる。

キリスト者は、国家における正義の実現に献身するべきである。キリスト者は、検事や裁判官や弁護士や政治家という職業を通じて、正義の実現に尽くすべきである。キリスト教的な哲学者や思想家は、その哲学や国家学、憲法学などの科学と法体系の建設を通じて、真理に貢献し、神の国としての国家を完成させるよう努めるべきである。そうして今日の日本社会から詐欺師や悪徳官僚、ゴロツキ、腐敗政治家たちが追放されるように。

ソクラテスは彼の信じる「正義」が国法によって断罪されたとき、「悪法もまた法である」として、従容として毒杯を仰いだ。イエスも、武器をもって反抗することなく、十字架刑を耐え忍んだ。人類の歴史の中には、そのような無垢の人の死が、無罪の死が無数にあったはずである。しかし、主は、そのように踏みつけにされた貧しい柔和な者に対して、「耳を傾け、願いを聞き、勇気づけ、こうした虐げに再び脅かされることはない」という。 悪人は主の国から消え失せるという。

 

 

 


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