海と空

天は高く、海は深し

8月2日(金)のつぶやき

2013年08月03日 | Myenzklo

この講義の対象は哲学的世界史である。私たちは世界史から様々な認識を引き出したり、また世界史を例証に挙げて、その世界観を様々に説明しようとするのだが、この哲学的世界史の対象とするのはそんなものではなく、むしろ世界史そのものである。この哲学的世界史がどういうものであるかを a


明らかにするためには、他の歴史のやり方がどのようなものであるかを検討することが有効である。それによって「哲学的世界史」の特質が明らかになる。(歴史哲学上s21)


一、歴史考察の種類
一般に歴史考察には次の三種類がある。
a、資料的歴史。
b、反省的歴史。
c、哲学的歴史(歴史哲学)。(ibid s 22 )


これらの歴史家の記述は、自分で現に視、また自分自身も一役買った皇位、事件、情勢に限られている。彼らは自分の回りに起きたことを精神的な観念、表象の国に移し入れた人々である。外的な現象はこうして内的な観念の中に移される。詩人もまた、その感覚でとらえた材料を観念上のものに作り上げる。a


歴史家はこの儚く過ぎ去ってゆく材料を結び合わせて、この記憶の殿堂の中に安置し、それを不滅のものとするのである。しかし物語、民謡、伝記はこのような根本的な歴史からは除かれなければならない。なぜなら、それらは未だ混沌としたもので、その点で未だ未開民族の観念に属するものだからである。b


これに反して、我々がここに問題にするのは、自分の存在、自己のしようとしたことについて自覚を持った民族である。現実の地盤というのは、あの物語や民謡の育った儚い地盤よりもはるかに基盤のしっかりしたものである。だから、これらの物語や民謡はもはや確固とした個性にまで成長している民族の c


歴史的資料とされることはない。ただ、このような資料的な歴史家は、彼らの前に現存する事件、行為、情勢などを観念の作品に創り替えるのである。だから、この種の歴史の内容は広範囲にわたることは出来ない。それらの歴史家の周囲に転がっているもの、生々しいものがその当の資料である。d(s23)


つまり、作者の教養文化と、その作者がそれを作品に創り上げる事件の文化とは全く同一のものである。作者は多少でも自分が一緒にやったこと、少なくとも体験したことを記述する。それは短い期間であり、人間と事件とについての個人的な型態である。a


彼が描く絵それぞれの像は反省の加わっていないままのものである。それは彼が現に自分の眼で視、または自分の前に現にある生々しい物語にあるのと同じ明瞭さで、原像を後世の人々に伝えるためである。彼は事件の精神の中に生きており、未だその事件を乗り越えるところまで行っていないのだから、b


反省を加えることはしないのである。のみならず、作者がカエサルのように、自ら将軍または政治家の立場にある場合には、彼自身の目的こそ、すなわち歴史的目的として登場する当のものに他ならない。・・・けれども話というのは人間相互間の行為であり、それも極めて本質的な影響力をもつ行為である。c


・・だが民族の民族に対してやる談話、あるいは民族や君主に対して行う談話または演説は、歴史の重要な要素をなすものである。・・・これらの人々はこの演説の中で、彼らの民族の基本的な性格、彼ら自身の人格の根本、彼らの政治的関係に対する見解、ならびに彼らの人倫的な、d


また精神的な本性に関する意識、彼らの諸々の目的や行動や原則を言い現わしているのである。したがって歴史家が彼らの口を通して語らせているところのものは仮構の意識ではなくて、語っているその人の本音なのである。我々がどれかの国民と共に生き、その国民の中に深く這い入り込みたいとする場合、e


その歴史家に傾倒して、その歴史家に拠るしかないといった歴史家、あるいは単に博識ではなくて、深く純真な愉悦を求めることのできるような歴史家というものは、それほど多いものではない。歴史の父、すなわち歴史の創始者であるヘロドトスとタキディデュスとの名前はすでに挙げた。f


カエサルの『ガリア戦記』は偉大な精神の書いた簡潔な傑作である。古代においてはこれらの歴史家は必ず偉大な軍人または政治家であった。中世においては、国政の中心に立っていた司教などを除けば、修道僧が素朴な年代記作者としてこれに入るが、g


彼らは古代の歴史家が公共の舞台に立っていたのと対照的に全く孤独の中に留まっていた。近世になると事情は全く一変する。我々の文化の性格は本来的に解釈的であるから、総ての出来事をすぐに観念相手の報告書の形に変える。これらの報告書の中にもなかなか優れた簡潔なちゃんとしたものもある。h


特に戦争に関するものにはカエサルのそれに匹敵しうるのみでなく、内容の豊富さと、軍備や情勢についての記述の点ではずっとよいものもある。フランス人のメモアールもこの種の報告書のなかに入る。・・この種の人々は元来高い地位の人でなければならない。高所に立つ場合にのみ物事を正しく i


展望することができ、物事を良く見極めることができるのであって、低いところから狭い窓を通してのぞき見るようでは、そうはいかないのである。(ibid s 25 )


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