2日、鳩山首相が辞意を表明した。メディアは「唐突」「突然」などと表現しているが、1日の当ブログに書いたように極めて自然な流れだ。鳩山政権の功罪については、当否取り混ぜて各紙に書き尽くされた感がある。ここでは、決してメディアが触れることのない「もう1つの敗者」について考えてみたい。
歴史的な政権交代から8カ月。内閣支持率は当初の70%超からつるべ落としで下降し、いまや10%に低迷している。国民の信を失った政権は代えるしかない。ここまではメディアの論調と同じである。だが、信を失っているのはメディアも同様だ。ここに気付かないと、「復権」など夢のまた夢だ。
2日の朝刊と本日のそれを読み比べてみれば、先見性と洞察力のなさは一目瞭然である。31日、1日と連日、鳩山・小沢会談が開かれた。テーマは「首相の進退」だった。公然と進退が語られるようになった政権の余命はいくばくもない。これは多少政治をウオッチしているものにとっては常識ではないか。
ところが、メディアは会談の中身を全く察知できなかった。においや気配を感じて、取材源に当たる動作ができないのだ。1日夕のグッドポーズを見抜けなかったことを「鳩山流のしたたかな演出」などと言っているようでは問題にならない。
ほめ殺しは今日のメディアの常套手段である。期待値を極限にまで高めておいて、結果が伴わないと「裏切り」と切り捨てる。政治もサッカーも五輪も、すべてが同じ手法だ。政治と同様、人気取りや話題性にしがみついてしまっている。
政治のレベルはその国民意識と比例するという。メディアのレベルはどうだろう。小泉進次郎を持ち上げ、事業仕分けでは蓮舫にスポットを当てる。「人気者を扱っていれば、大きな外れはない」というさもしい根性が丸見えである。
次期代表選をめぐっては「小沢との距離感が問われる」と言いながら既に菅直人に擦り寄る気配が濃厚だ。「小沢の動向が焦点」などと書いている時点で、小沢支配を容認していることに気付いていない。
無冠の帝王と呼ばれるメディアが「無冠の低能」になりつつある。しかも、メディア自身はそのことに無自覚だ。新聞が読まれなくなるのも道理であろう。
当ブログは枝野と仙谷を次期代表に「指名」しておいた。可能性は0.1%程度かな。
歴史的な政権交代から8カ月。内閣支持率は当初の70%超からつるべ落としで下降し、いまや10%に低迷している。国民の信を失った政権は代えるしかない。ここまではメディアの論調と同じである。だが、信を失っているのはメディアも同様だ。ここに気付かないと、「復権」など夢のまた夢だ。
2日の朝刊と本日のそれを読み比べてみれば、先見性と洞察力のなさは一目瞭然である。31日、1日と連日、鳩山・小沢会談が開かれた。テーマは「首相の進退」だった。公然と進退が語られるようになった政権の余命はいくばくもない。これは多少政治をウオッチしているものにとっては常識ではないか。
ところが、メディアは会談の中身を全く察知できなかった。においや気配を感じて、取材源に当たる動作ができないのだ。1日夕のグッドポーズを見抜けなかったことを「鳩山流のしたたかな演出」などと言っているようでは問題にならない。
ほめ殺しは今日のメディアの常套手段である。期待値を極限にまで高めておいて、結果が伴わないと「裏切り」と切り捨てる。政治もサッカーも五輪も、すべてが同じ手法だ。政治と同様、人気取りや話題性にしがみついてしまっている。
政治のレベルはその国民意識と比例するという。メディアのレベルはどうだろう。小泉進次郎を持ち上げ、事業仕分けでは蓮舫にスポットを当てる。「人気者を扱っていれば、大きな外れはない」というさもしい根性が丸見えである。
次期代表選をめぐっては「小沢との距離感が問われる」と言いながら既に菅直人に擦り寄る気配が濃厚だ。「小沢の動向が焦点」などと書いている時点で、小沢支配を容認していることに気付いていない。
無冠の帝王と呼ばれるメディアが「無冠の低能」になりつつある。しかも、メディア自身はそのことに無自覚だ。新聞が読まれなくなるのも道理であろう。
当ブログは枝野と仙谷を次期代表に「指名」しておいた。可能性は0.1%程度かな。
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