もこにゃんとばあば

もこにゃん もうすぐ八才(2015年生れ)
登場数は少ないですがヨロシク!にゃん

忠臣蔵

2022-12-14 04:34:48 | 俳句・短歌

年の瀬や水の流れの如くあれ

としのせやみずのながれのごとくあれ

松の葉の青きを見るは晴れやかに来る年の道青々とあり

 

元禄15年12月14日に、赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入りをし、主君の仇討ちを果たしたことにちなんで制定された記念日。

新暦1703年1月30日「忠臣蔵の日」は、討ち入りの日四十七士討ち入りの日とも呼ばれております。
 
<label for="label90819">忠臣蔵・かんたんな経緯</label>性格にちょっと難あり?

と見られていた吉良上野介義央きらこうずけのすけよしひさに、ある日江戸城内で小馬鹿にされた播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのり

浅野内匠頭は、それまでもちょくちょく吉良からモラハラまがいのことをされていた

ことへの鬱憤等も相まり、江戸城松之廊下で吉良に切りかかってしまいました。

同じ時、同じ江戸城で朝廷を接待していた時の第5代将軍・徳川綱吉はこの出来事に激怒し、浅野側:即日藩主切腹、領地没収 吉良側:お咎めなしのご沙汰を下しました。

しかし、このご沙汰に納得できなかった大石内蔵助 堀部安兵衛など浅野内匠頭の家臣・赤穂志士たちは、主君の仇を取るべく後日吉良邸へ押し入り吉良を討ち取りました。

当時の世相は、主君への忠義が高いと赤穂浪士の行動を支持する声が日増しに強くなっていったことで、幕府も討ち入りをした赤穂浪士たちに対しては極刑と決めていたものの、当時の武士の(名誉ある)死とされていた切腹を認めざるを得ない状況に。

この事件を題材にした仮名手本忠臣蔵などの歌舞伎が演目として大流行となり、以後100種以上とも数えられる作品が作られ現在まで語り継がれております。

近年でも例年12月14日には、赤穂浪士にちなんだ 泉岳寺:東京都港区高輪 大石神社、花岳寺:兵庫県赤穂市などでは、義士供養の 義士祭が、また、吉良邸の一部は現在本所松坂町公園(東京・墨田区)となっており、同公園周辺では元禄市がそれぞれ行われております。

ちなみに、2010年代以降の教育現場界隈では、会社や上司などへの忠義を意識させ、個を疎かにしてしまうとの懸念から、忠臣蔵はあまり好まれる傾向にはないそう。。(ダレトク雑学トリビアより)

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私達の若い頃はNHKの大河ドラマでも忠臣蔵をやっていたりと、12月14日は忠臣蔵の日と覚えていたくらいです。

ちなみに、2010年代以降の教育現場界隈では、会社や上司などへの忠義を意識させ、個を疎かにしてしまうとの懸念から、忠臣蔵はあまり好まれる傾向にはないそう。。とのことですが何か違ってやしませんか?と思いますね。

会社や上司への忠義にばかり持っていくとそうなるのでしょうが・・・違う方向で歴史認識や人間関係を教えたら良いのにと思います。

どうして家臣が殿様への忠義を持ったのか。。

北海道砂川市の北泉岳寺にも四十七士のお墓があります。

浅野家筆頭家老の大石内蔵助の辞世の句

「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」

「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」

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昨日は田舎の母の義理の妹から長芋が届きました。

こんなにたくさんあっても食べきれないので、お世話になっている方たちに配ろうと思います。

函館の弟は車は辞めて飛行機にしたようです。

函館から車だと5時間かかるので往復の事を考えたらやっぱり飛行機でとなったようです。