2月5日
我那覇さんの動画を、門田隆将さんが紹介していた。
PCから投稿してます。
世界の情勢を見て、スピリチュアル系の情報を見て、「刻限とは?」と思いながらここ数年間通ってきた。
天理教の教えは、だめの教え、最後の教えと言われて、それ以外は必要ないと言い切って、見向きもしない人がいるとしたら、それは大きな間違いに陥ると思っている。
私の友人で、親の言うことにはとして、我がことを忘れて尽くしてきた人がいる。
その人から数年前に連絡があり、これまでと生き方を変えた。とのことだった。
どういうことかというと、だめの教えと言いながら、それ以前の9つの教えを知らずでは、だめの教えも分からないだろうから、それを求めるようにして、様々なところをめぐり歩いている。そうしたら、すごい発見があり。。。やはり「元の理」が重要だ。とのことだった。
その9つの教えを求めている彼の姿は、教団が。。。信者が。。と言っている人々とは違い、とても元気はつらつであった。
教祖のお言葉を探して、いろいろな書物を見ると、結構語呂合わせの言葉が出てきて、理解に苦しむことが多い。
結局理解できずに、そのままになってしまうのだが、
この語呂合わせは、日本語だからできるのであり、日本語の重要性をこの数年感じている。
様々な神社仏閣を参るにして、教祖はその時には、天理王命の神名を唱えて参れと言われていた。
神社仏閣が必要ないということではない。
ましてや、
神に対して、参る人が多くなれば威光が増す。というような言葉もある。
9つの教えを一つ一つ求める人、またそうした教えで導かれている人々もあり、そうした人々の発信から得るものもあると思う。
さて、
身体の傷など、目に見えてよくなることは、周囲の人々にもわかりやすいが、体の痛みや精神の異常などは、周囲の者には分かりにくい。
しかし、そうした精神の身上についても、助かった逸話は沢山ある。
その時には、本人ではなく、周囲の人々の心の切り替えが、一つのポイントになっている。
昨日も「あしきはらい」から「あしきをはろうて」に変わったことを書いたが、心のほこりを払ってもらうことを念ずることも大切だと思う。
その時に、自らのいんねん。
見せられていたり、世話をさせられているいんねんを悟ること。
とても重要である。
さらには、精神の身上に対しては、「ご飯を食べて満腹になるようにはいかなくても、薄紙をはぐように」というような言葉で、ご守護の頂き方も示されている。
ご守護を頂いた話の中に、些細な変化に気が付いて、それを喜んだら徐々に良いほうへとご守護頂いたという話が多分にある。
喜べば喜びが回ってくるといわれるが、その一つとも思える。
親神様・教祖は、何とか助けてやりたいと思っておられる。しかし、
人間が生まれ変わり出変わりして、積み重ねた悪いんねんはどれだけとも分からない。
今世界では、ワクチンの被害が多分に報告をされているにもかかわらずに、中止をしようともせずに、進めている人々がいる。
これは、どれだけ多くの人々に残念や恨みの心を植え付けるか分からない。
その心は、それを行った人々へと返される。
これが理である。
そうしたものが、今世に現れたとしたら。。。
というものである。
私が東日本大震災で、ひのきしんに行った時に、腰を痛め、数日後にひどい痛みで入院をした。
その時、牢屋での番人をして、冤罪の人を痛めつけている自分の姿が夢うつつの中で思い出されて、お詫びをしたところ、その晩に不思議と痛みがなくなった事がある。
その時には、あと少しひねれば、すっきりするのにと、腰をひねって、より一層の激痛になり、さらに数日身動きが取れなくなった。
そして、さらに思案の日々が続き、痛みがあっても神経が切れていないことに感謝したところ、3日後には全く痛みがなくなるという不思議をいただいた事がある。
そうしたことから、身上を通して、自分の悪いんねんを果たしていくということを、実感している。
「わが身恨みであるほどに」である。
世界では戦争に巻き込まれる人もあり、知らず知らずに戦争の片棒を担がなければならない人もある。
安全なところに生活をしながらも、明日を心配して眠れぬ日々を過ごす人もある。
「この世に天国も地獄も出してある。」という言葉は全くと思う。
これを切り替える道を具体的に教えられたのが、教祖である。
それはいんねんを悟り、たんのうすること。
喜びに変えれずとも、人を恨むことを止めることである。
生まれ変わりの話で、
小エビを食する話がある。
小エビに「こんなものに生まれてくるから食べられてねばならん。」と言われて、周囲の人々に「おいしいと言って食べてやってくれ。その喜ばせた理で人間に近くなってくる」と言われたものである。
小エビの一生というものはわずかなものである。数年生きれば良いだろう。
そうした中に、喜ばれた理で人間に近くなるのである。
人間に生まれても、3歳で亡くなる人もあり、100歳で亡くなる人もある。
亡くした人の心もあるが、亡くなった人が生まれ変わることを考えたら、3歳で亡くなろうとも、周囲の人々が喜んだならば、早く生まれ変わってよい体で新しい人生を歩むことになるだろう。
今は、教祖140年祭に向けて、ひながたをたどろうと言われている時である。
ひながたを意識するということは、
ひながた、逸話に込められた親神様の理を思案する時でもあると思う。
思うがままに。。。
篠原常一郎さんの、普天間基地を辺野古へ移設することに関して、反対をする団体の現状と、新聞などでの報道との違いを紹介する動画に出会ったのが、狂った世界情勢と日本の政治を知る一番の元でした。
それを思い出す投稿があったので、記録しました。
2月4日
ところが、元の理からすると、かんろだいのぢばは、人間を宿し込んだ場所、「いざなぎ」と「いざなみ」様が、男女の道具を使い、「いざなみ」様の体内に、人間の種を宿仕込んだ場所。そして人間が生まれでるまでの間、滞在していた場所、地点を現している。
その場所を定めたのが、ぢば定めの時。
親神様のはじめの計画は、この場所に、人間を宿仕込み、育てる上に使った道具衆の魂を持つものを集めて、かぐらづとめをつとめて、不思議な現象を表して、人間の心を変えたいと言うもののだった。
けれども、集まった人衆は思うように仕込めず、不思議なたすけを妨害する者が多くあり、助けたくとも助からない人々が多い状況が露呈した。
つづく
2月3日追記
それ以外にも、せっかく渡したおさづけを自分の欲得のために使うもの、元の屋敷を蔑ろにするものなど、不思議を見せることでおごり高ぶる人間の姿も露呈した。
そして、それに対する対処も、さづけを止めたり、おやさまが自ら出張して取り払ったりと、ひながたに残された。
その一つが、かんろだいの石の没収による、助けの方針の変更である。
天理王命の名が知れ渡り、神名を唱えるだけで不思議が現れ、おやさまがうつしみを隠されて後は、おさづけを頂いた人々が現す、様々な不思議で、不思議な神が現れたとして多くの人々がぢばへと集ってきたが、その集う思いは様々である。
真に人助けを思うもの、欲得で天理教を利用しようとするものなどなど、千差万別な人々が集ってきた。
そして、集った人々を仕込むと共に見定めるために、様々な事柄を始め、また様々な事情が起こり、より信仰を深めるものもあれば、離れるもの、教えや組織を利用して自分で事を起こすものなどが現れての今日である。
なぜかんろだいの石の没収を契機として、道をかえたのか。
私はとても不思議だった。
それが、このコロナの事情、世界の大変動の事象でなるほどと思えた。
「いちれつ澄ますかんろだい」は、おつとめをつとめて、下がった甘露をおやさまから人々に渡すというもので、それを貰うためには心が澄んで誠が使えねばならないと言うものだった。
それを貰いたいと思う人々は、自らで心を澄ます努力をして、貰いに来るであろう。と思って段取りを組んだ。
ところが、余りにも心が澄んだものがおらず、心を澄ますということすら考えない、周囲の圧力妨害、習慣に捕らわれて、親神様の思いを分かろうとするものがいなかった。
これでは、せっかく付け掛けた道が遅くなるとして、おやさまの代わりに広くさづけを渡し、人々の心を澄ましてからかんろだいを建てようと、「あしきをはろうてたすけたまえ 天理王命」「あしきをはろうて 助けせき込む いちれつすまして かんろだい」と変更された。
つづく
2月3日- 2追記
そして、現身を隠されたのちは、真柱様を芯として、本席様を祖神様教祖の思いを伝える道具として、個人の助けに限らず、組織としての進め方などを仕込まれた。
この組織としての内容には、神一条と世上の理との区別と対応、会議など、入り込みについてなどなど多岐にわたる。
これらをどのように悟り、思案をして対処に用いるかは、人間の心にかかっている。
立教依頼187年がたち、教祖が現身を隠されてから140年がたとうとしている。
その間の道の歩みとともに、世界の変化を考える必要があると思う。
みかぐらうたの最後「止は大工」と言われているが、大工も一人ではない。
「大工の人も揃い来た」と複数人が必要となり、その大工に使われる道具もある。
陽気世界を実現することを、「陽気ぐらし建設」と表現することもあるが、これはこうした建築にたとえた表現からである。
重要なことは、陽気暮らしを実現するための人材、道具衆にもいろいろな特性があり、それらの持ち場立場で出来上がっていくのである。
ところが、せっかく誠を尽くして一つの道具として使われるようになったとしても、自分のことばかりに囚われて、自分と同じことをしていない人に不足をする場合がある。
これは厳に気をつけねばならないことである。
「誠の中のほこり」という話でこうしたことは教えられている。
良いことをしても褒められたら帳消しとして、褒められなくても喜んでつとめて陰徳を積むことを教えられたのと同じく、積極的にひな形をたどろうと動き出しても、動かない人を見て「なぜ動かない」と不足をしたならば、それは「誠の中のほこり」となってしまい、親神様の受け取りはほこりとなる。
どうしてこんなにもしているのに。。と思うこともあるだろうが、人それぞれに、前世からの持ち越したものの、重い軽い、多い少ないは異なるのである。
このことをよく思案して、日々努めることが大切だと思う。
掃除をするにしても、掃除の仕方によって使う道具は違うのである。
心の掃除の仕方も、され方もしっかりと学び思案をする必要があるだろう。
陽気ぐらし実現の道具となるか、ならないか。
また、良い道具となるか、悪い道具となるか。
それはそれぞれの心次第。
すべては、教祖が通られた道の中に、先人が通られた道の中に、ヒントが隠されている。
思うがままに。。。。