もう20年程前の話だが、支部の学生担当をしていた時の事である。
学生たちに親神様のお話をさせてもらうのに、とても自信がない時があった。
そして、本部のある先生に専修科の先生を派遣してもらう事を尋ねて見た。
即答で「お前たちには、すべてを教えてきた。自分たちでやれ。」との返事だった。
当時、本部に対する批判を高らかに述べる団体の存在。また、数件の大教会の事情の話を聞くころで、何が本当だろうかという疑問にぶち当たっていた。
そうした中に、先の先生の言葉である。
それから、一から教理の本を求めて読むようにした。すると、不思議な事に、こんな本があるといううわさから読みたいなぁと思っていると、なぜか自分の手元に寄ってきた。
そして、それを暇ある事に読んだ。
その中で気が付いた一つは、「ほこりの教理」で、ほこりの説き分けの具体例が重要ではなく、最も重要なのは、ほこりを分ける事である。『信者の栞』を元にすると。。。
ほこりの説き分けの例に重点を置くと、例えば、「ほしい」と思う事すべてが悪い事だと思ってしまうという事である。
ところが、ほこりの説き分けの冒頭には「ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。」と書かれている。
これが一番重要で、そのあとの説き分けは、それを知るための「かどめ」例であるとの事だ。
ところが、この八つのほこりの文章はとても長い。そして気短なものには、「もっと簡単に話をしてくれ」と言いたくなるものである。(簡単にとか、簡潔にという言葉をよく聞くが、この事についても話をしたいが、話がそれるので、後日)
そこで、善悪を分ける説き分けを熟読せずに、ほこりの言葉のニュアンスのみで考えていたと、これは後日、気が付いた。
それに気が付いたのは、『正文遺韻(抄)』の「八つのほこりの理」を読みやすいようにと自分なりに書き換えて見た時だった。
ただ単に読むのと、書き換えるという事は違い。書き換えることで、言葉を理解していない自分を良く分かった。書き換える作業が、教えを自分の身につけてくれたように思う。
そして、先に述べたように、自分の性分で「簡単に」とか「こんなもんだろう」という推測で考えているのは、間違いもあるとも思った。
けれども、考えたならば、これも一つの考え方である。
若いころの自分は「かわいい」というほこりの説き分けから「我が身かわいいと思ってはならない。自分をすべて犠牲にして」と思い込んで、突き進んだ時期もあった。
今思えば、この心で行動したから、分かったことも多分にあったので、こうした考えも必要と思う。
ただし、この「かわいい」という事から一つしてはならないと思う事がある。
それは、先の如く私は、「自分を犠牲にしても」と思って通っていたので、「この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」という言葉から、「苦しい事は避けて通るのがよい。好きな事をしていればよい。」と、説く人を見かけることがあり、どういう事だろうか?とずっと疑問に思っていた。
そして、年限が経ち、今日では、次のように思う。
この言葉の出典はどこかというと、教祖伝逸話編の64「やんわりのばしたら」の後半部分に次のように出てくる。
ある日、泉田籐吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、
「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない。」
と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心におたすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭を使っては効能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間程これを続けた。
又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻わらせて頂いた。
こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、
「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」
と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。
30日も水につかって、おたすけに回った末のお言葉である。30日も水につかって人助けに歩くのは、並々ならぬ誠の心がなければできない事であろう。それを受け取った上で、「身体を苦しめて通るのやないで。」と言われたわけで、この心がないものが、「身体を苦しめて通るのやないで。」の言葉を盾にして、自分の好き勝手をするようであれば、それこそ「かわいい」ほこりの、自分だけが可愛いという偏愛心という心遣いになり、道を通りながらもほこりを積む歩みをしていることになると思う。
この逸話編については、もっといろいろな思案があると思うが、この事についてはこのように思う。
さて、話を戻したい。
今回、話題としたいのは、物の見方は一通りでないという事である。
それも、段階段階で物の見方は変わってくる。そうした事を心においておけば、また違った喜びが湧く。
「けっこう源さん」のように、何でも結構だと喜んで通れるのではないかと思う。
教祖のひながたの、見方についての具体的な事は、時間がないので、また後日にしたいと思う。