あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

教祖の予言。。うそをつくとどうなるか。。。正文遺韻抄から。。。思う事

2021年01月04日 09時34分05秒 | 思った事

2日、正文遺韻抄をパラパラと見ていたら、「教会標識のご予言」というものが目についた。

短い文なのだが、とても重要な情報が沢山あることに気が付いた。

画像では文字が読みにくいと思うので、書き出しておく。(字体、文体を読みやすいように書き換えておく。)

8丁と2丈との単位が出てくる。1丁が109mほどで、1丈は約3mとの事である。
一里、一町、一丈、一間ってどのくらい?長さの単位 - 古文書ネット (komonjyo.net)

・・・・

 明治18年頃の事である。ある夜、鴻田様がの次の間にて、宿直していた時に、夜深い時に、教祖お眠りのままにて、神様がお降りになった。
『ヤレヤレヤレ、ヤレヤレヤレ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、えらいものがたったなぁ、たけは2丈もあろうか、これより東8丁、天理教会本部、フム―』と仰せられ、誰も知る者なく、突然の事であるので、鴻田様もふすまの外にて、寝間着のまま承った。

 明治32年6月、三島村、足立保次郎が発起人として、有志を集めて、川原城のステーション構内へ、『これより東5丁天理教会本部』と刻んだ、高さ2丈ばかりの石標を建設した。実際は8丁あまりあるけれども、足立氏の問うと、道近いと思えば、立ち寄る人も多いだろうという事で、5丁にしたという事である。

 誠の道に偽りは、片腹痛い事であるが、元々、道に薄い人々の有志から出来た事であるから、やんごとなし(仕方のない事)。
思われることには、おぢばへ参拝しようと思う人は、5丁と8丁との道のりの違いで、心を消す者もあるだろう。又5丁とあるのを見て、ホンに近いと思って、寄ってみようかと思い参拝する者は、5丁は偽りなりと思って、少しでも心に不足を残す。

 不足の理は、天の理に叶わず。「天の理に叶わなければ、栄えず」という事は、神様の仰せである。
世の中には、これと同じような事が多い事を見るごとに、気の毒に思われる。
ましてや、これより東8丁と、教祖のご予言、いや、神様がお聞かせ下さる事を忠告しない事こそが、返す返すも口惜しい事である。

この文から私が感じる事を列記しておく。

1;教祖が親神様のお言葉を出される状態についてである。
教祖の意思とは関係なく、親神様のお言葉があり、そのお言葉を聞き取る人が、常時傍におられたという事がこの事から分かる。

2;明治20年に教会を親神様がお許しになられるのだが、この明治18年に教会本部の標識が出来る事を言われたという事は、親神様は、この時点ですでに教会が出来る事、教会を許す事を知っておられることになる。

3;誠の道に偽りは、片腹痛い事であるが、

この部分でしっかりと、「うそと追従これ嫌い」と言われていることが分かる。しかし、後半部分の

元々、道に薄い人々の有志から出来た事であるから、やんごとなし(仕方のない事)。

この考え方が、栄えるための障害になっている事が、以下の事からよく分かる。

4;不足の理は、天の理に叶わず。「天の理に叶わなければ、栄えず」という事は、神様の仰せである。
世の中には、これと同じような事が多い事を見るごとに、気の毒に思われる。
ましてや、これより東8丁と、教祖のご予言、いや、神様がお聞かせ下さる事を忠告しない事こそが、返す返すも口惜しい事である。

人間はその場限りの事で思案しているが、親神様の思案は先の先までの思案であり、人間が間違わないようにと先に教えて下さっている一つの事例と思われる。これは、「信仰は転ばぬ先の杖」と言われることと重なる。

いくら信仰をしていると言っても、お言葉や教えを実践せずに、「そんなこと言ったって」と人間の目先の欲得に囚われての判断がどれだけ危ないものか思われる。

5;うそはばれて、人に不足を与える。真実は人に得心をさせる。それは時が経って大きくなって現れると思える。

 

さて、

親神様はすべてをお見通しである。過去から未来までも、その中に人間がどうなるか。これを見定めている。

いくら親神様が先を案じて、教えようと思っても、教えられる人々の成人が足らないと、その教えを受け取る事が出来ない。

この姿が、50年の教祖のひながたに示されているように感じる。

人は助けてくれるヒーローを求める。その状況になったことを考えずに。。。とも思える。
それを繰り返さないために、過去の歴史がある。

すべての事には意味がある。「なってくる理を思案せよ」との言葉がいつも心に浮かぶ。
神人和楽の陽気ぐらし世界を実現するという親神様の思いの中に。。。

この歴史の中で、今は、行いの善悪だけではなく、その裏にある人の心を思案できるようにと導かれているように思う。

 

親神様、教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

 

 

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