先回、
悪風というものは。。。逸話編 183
を投稿してからちょうど一週間が経つ。
この間、思いつく事を書き始めるのだが、途中で筆が止まってしまい、投稿に至らなかった。
まず、先回の悪風にかんする逸話編は「泥水」に関して書くつもりで投稿した物である。
しかし、今の世界情勢、日本の情勢、また情報操作さらには裏での事柄が表に出て、それに気が付いている人々には、これから先を不安に思い、また親神様の働きを疑う人々も多いかと思う。
親神様の思いは、陽気ぐらしの実現である。
いつも書いているが。
陽気ぐらしのためには、それぞれ人間の心が澄まねばならない。
ほこりの心が払われなければならないのである。
ほこりの心が払われるためには、それぞれがそれぞれの心のほこりに気が付かねば、払われるものではない。
この自分のほこりの心に気が付く事が重要だと思う。
新型コロナが治まるためには、ワクチンではダメで、治療薬が必要とも書いて来た。その治療薬は50年以上前から既にあり、いつでも使える状態になっているのに、それを認証しようとしない人々に寄って、多くの人々の命が危うくなっている。
これを事実と思うか、陰謀と思うか、それはそれぞれの心、見方によって今分かれているのである。
こうした状況を教祖の史実・ひながたに照らし合わせた時、色々な気づきがあると思う。
今、日本の歴史・太平洋戦争の起因など、学校で教わった事とは違う説が出てきている。
これまで当然と思っていた事が、太平洋戦争で日本が負けて変わり、また今、その時の資料がアメリカで開示されて又変わろうとしているのである。
先の逸話編は、教祖の教えを時の権力者が妨害をする時のお話しである。
悪風とは世間の風である。教祖の親神様のお話を悪いものとして、弾圧した風である。そしてその権力者たちの心は泥水であり、それに親神様の思いが分かった清水を入れても澄まないのである。
それに巻き込まれないようにすることが重要なのである。
そうした時の歩み方を教えられているのである。
私がこれまでに、日本のマスメディアでは流されない事をFacebookなどで共有してきたのは、そうした悪風に気が付き、親神様の思いを悟る手立てにして欲しいと願ったからである。
また以前、戦時中の天理教の対応についても書いたことがあるが、応法の道を許された今の天理教は、政治の道と神の道の2重の対応をする事になっている事を知ってもらいたいからである。
また、裁判での不思議な体験も、そうした意味合いで書いたものでもある。
裁判に関わって、裁判での弁護士は勝つか負けるかの世界である事も知った。その上での知恵のせめぎあいである。
そうした知恵を働かせても、思い通りに証言者が発言をしたり対応をしなければ、弁護士の思うようにはならないのである。そうした中にも親神様の不思議は働く、理は働く。誠真実で不思議が出てくるのである。
反対にいくら勝つだろうとしても、悪い理を撒いていれば、そのようになってくるのである。表面的に勝ったとしても、人々の心は離れて、信仰が失われるという事もあるのである。
重要な事は「誠の種」である。親神様が喜ばれる誠の種を撒いているかどうか、それが陰徳として、隠されているかどうかであろう。
人に認められることばかりに気を取られて、陰徳を忘れてはならない。
人の業績にかこつけて自分を着飾ってはならないのである。
すべては「かしものかりもの」であり、心ひとつが我がの物である。
この心の泥を「すくい出す」のである。もしくは、底の栓を抜いて流し出すのである。
また、心を澄ますのは「すいのと砂にかけてすませよ」であり、「胸と口とが砂とすいの」なのである。
世界でいえば、いんねん寄せて守護するので、泥の人々は集まるのである。
清水の人々は静かにしていれば上に浮くのである。
清らかな所へ。。。逸話編 148
ここにも
「前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、又、泥水の中へ引き入れようとするから、神が切り払うた。」
として泥水が出てくる。
これは天理教を信仰する人々の中での話であるが、世界の事に広げても同じことである。
その泥水は、親神様が処分されるのである。
まだまだ混とんとしている。道の中も世界も。。
それぞれに悟って、自らの泥水を「すいのと砂にかけてすませよ」のお言葉通りに澄ませて、陽気ぐらしへの歩みを進めましょう。
ひさびさに思うがままに書きました。
参考になれば幸いです。