昨日、10月26日は、天理教教会本部にて「秋季大祭」がつとめられた。
私は用事で、25日から出かけていたので、8時の開始時間から参拝させて頂く事が出来た。
いつもならば、中庭ではじめから最後まで参拝をするのだが、フェイスブックでの友人が気になり、雅楽の音色を聞きながら総合案内所へ向かった。
元気そうな顔を見て、握手をして別れた。
その時、祭文奏上をFacebookで聞いてもらえたら良いのではないかと、南礼拝場前で録画を始めた。
祭文では、新型コロナではなく、世界の事情をお納め頂きたいという旨の文言があり、ありがたく思った。
録画を終わり、配信しようとしたら、その動画が上下逆転していた。
それまで普通に取れていたのに、何事かと思った。
私はこうした機械の上にも親神様は働かれて、メッセージを下さっていると以前から思っており、これは「投稿するな」との事だと思ってやめにした。
せっかく南側にいる。撮影するにはちょうど太陽を背にして、絶好である。
ならば以前見付けた、神殿と教祖殿とが映る場所で、かぐらづとめを撮影して配信しようかと思い立った。
撮影中に、南礼拝場の上に月が出ている事を発見した。
こんなに明るい日なのに、こんなにはっきり見えるなんて何と不思議なと思った。
そして、背には日様・正面には親神天理王命(十柱の神様)と月様。
なんだか、月日親神様が私たちの成人を見守り、導いて下さっていると思えて、とても嬉しくなった。
そんなことを思いながら、かぐらづとめを参拝し、世界の人にこの不思議な御守護を知ってもらえればと配信しようとしたら、ファイルが無い。
いくら探しても、ないため投稿できない。
これも投稿する必要はないと言われたと思い、いつものように中庭へ移動した。
(教会に戻り、捜したところ動画はあった。あまりにもファイルの容量が大きので、公開できなったのだろうと思った。写真はその動画からのものである。
また、祭文の動画は逆さのままであったが、正常位置に変える事が出来た。)
中庭は月次祭とは違い、パイプ椅子が庭一面に敷き詰められ、ほぼすべてに人が座っておられた。
そうした中、一つ空いている席を見つけて座った。
隣には、先日愛知教区で「ひのきしんスクールシンポジウム」を開催した責任者の先生が座っておられた。
この「ひのきしんスクールシンポジウム」は、新型コロナによってもたらされた様々な苦労を乗り越えて、1年半の延期の末、ネット配信とネットで視聴できない人のために会場を設営するようにと企画し、啓もうをして、ようやく実現した企画である。
【ライブ配信】ひのきしんスクール シンポジウム 愛知会場 ~育児は育自~ 令和3年10月17日 - YouTube
私の支部も、ひと会場を設けて、たった5名であったが拝聴した。
3時間にわたるもので、これは一人で見ていたら見続けられないなと感じると共に、終わった後に、お茶を飲みながら感想を話し合う中に、集まって行う事の重要性を感じたのであった。
現在もその講座はYouTubeチャンネルで配信中(今月末までの予定)で、1000件の視聴を越えている。
開催に当たられた先生へのお労いを、親神様の前で申し上げる事が出来てこれまた嬉しく思った。
そして、このひのきしんスクールは、天理教内外の方を講師として招き、その方の視点から、天理教の教えを元に助け合いのための考え方や技術などを学ぶものである。
また今回の講師の先生から、教祖のお話しの言葉がどれだけ世間で独り歩きをして、どれだけ人様の手助けになっているかと思った。
やはり、「教えは神」である。
同じ言葉を聞いても、受け取り方、悟り方が重要とも改めて思った。
話は変わるが、
この10月26日という日は、人間を宿しこみの時、「子数の年限が経ったなら神として拝をさせよう」と、月日が寄せた道具衆に約束をした、その日である。
つまり定められた日である。
また、おさしづには「刻限話」として、定められた日に、人々にさしづされた話が沢山ある。
そして「旬に撒かねば芽は生えぬ」と農作物に例えて、定まった時旬がある事も教えられている。
なぜこのような話をするかというと、本当にそうした旬を感じているだろうかとも思ったのである。
25日の夜、ユーチューブを見ていたら、その中で「未来を予見する道具があり、その道具を利用して、世界の上層部の人は自分たちの良いように物事をすすめて来たが、それがある日を境に絶対に変えられない未来を予見した。そしてその時を境にそれまで上層部が行ってきた悪事が次々と暴露されて、その未来へと向かっている」という話しを見たのである。
そうした機械が本当にあるのか私には分からないが、確定された定められた未来があるという事は、先に書いた話から思うのである。
そうした事があって、今はどんな時に向かい、どんなことをするべき時なのかと思いながら、先に掲げた写真の通り、月日様と秋の大祭のかぐらづとめを拝したのであった。
教祖は、定めた時にかんろだいを建てて、おつとめを勤めさせるようにと、何年も前から準備をされたのである。
その時が来て慌てる事の無いように、その時を逃さぬようにと順序だてて進められたのである。
これも「ひながた」である。
ところが、人間の成人があまりにも鈍く、親の思いが分からないために、「かんろだいの石の没収」を節として、おつとめの地歌を変えて、子供可愛いゆえに、一つ道を変えて、「をや」である教祖の定命を25年縮めて、今日の歩みがある。
これも「ひながた」である。
「始まりた理と治まりた理は一つ」と聞かせられる。
始まりた理とは、この秋の大祭のつとめられる立教に関してである。
治まりた理とは、春の大祭がつとめられる、教祖が現身を隠された事に関してである。
今日はこれから布教所のおつとめです。それを終えてから大教会の当番に行きます。
陽気ぐらしに向けての親神様の思いをしっかりと心に置いて、今日も喜んで勇んで努めたいと思います。
思うがままに書きました、何かの参考になれば幸いです。