親神様の存在(神の存在)については、「願う誠に現れる姿が神やで」と教えられる。
つまり、「願わねば神の姿を体験できない」という事になる。
では、願う時はどういう時かと言えば、自分が困った時、自分の思い通りにならない時であろう。
もう一つ言えば、周囲の人々の身上や事情を願う事もそれに入ると思うが、ここには、周囲の心が本当に願う心になっているかという事がもう一つ条件に加わる事になる。
おさづけなどは、その典型である。
いくら「助かってもらいたい」と思っても、相手がそう思わない時が多いのである。
それは先人のおたすけ話にもたくさん出てくるのである。
また
不思議を見せて頂く条件はもう一つある。「願う誠」の「誠」である。
ただ願うだけではならないのである。
この誠が「心定め」であり、神様との約束となろう。
そうして神様の姿を見たとしても、人は「30日経ち60日経てばコロッと忘れてしまう」と教えられるように、その体験も忘れてしまう。
またこれをきっかけにして、「神様の教えを求める気持ちになるかはこれまた別問題である」と思えるようになった。
ある方が、おたすけをされる時に、「自分が助かったことを人様に話して下さいね。物金ではありませんよ」と言っておさづけを取り次ぎ不思議を見せて頂いているそうである。
これは、この言葉がおたすけ受ける方の心定めである。
その時に、このおたすけ人の言葉を受け取り定めた身上者の心を、親神様が受け取ってくださっているのである。
この助かった方が、それを実行されれば更なるステップへ進むことになるだろう。
しかし、ここで終ればまた一からやり直しとなり、「心得違いは出直し」となろう。
これは、心定めを忘れずに、人助けの上に心を進めた人には分かる事である。
そして、その次のステップは。。。
と続いていくのである。
このようなステップに気が付いたのは、
疑問を持ち、教理を勉強し、人々のいう事の違いに疑問を持ち、教祖の元の教えを知りたいとして、親神様の不思議をこのブログを書きかけたからだと最近思うようになった。
体験と教理の勉強。この繰り返しがとても重要だと思う。
昔は本当に、見る人見る物に「あれは○○だからいかん。こうでなければ。。」などとすぐに不足を言っていたのだが、
最近は、「そういう見方からすればそうなるね。こう見たら違うけど。。」というように変わって来た。
そして「その考えでしたら失敗するのに」「どうして気が付かないのかなぁ。早く気が付きますように。」とも思うようになって来た。
そして「水の心」「かとうやわらこう、やわらこうかとう(固く柔らかく、柔らかく固く)」がなるほどと思うようにもなっている。
思うがままに書きました。
参考になれば幸いです。
今日は昨日の支部長会の連絡をひも解いて、支部の連絡報を作ります。
無事に出来ますように。