今朝、YouTubeを開いたら、うつ病での日常を動画にしている人の「究極の決断!弾薬か服薬か?」というタイトルが目に入った。この方の話は結構、ためになると思う。他の動画も見てもらえば色々な参考になると思う。
そこで、「精神の病」について書いておこうと思う。
まず。なぜ、精神の病として、うつ病と書かなかったかというと、精神の病はうつ病だけではないからである。
統合失調症と言われる、幻覚や幻聴がある場合もあり、うつとは反対にそうの場合もあり、この両方が起こる躁鬱を持っている人もある。ましてや、先日来ニュースで取り上げられた依存症というのも精神の病である。と私は思っている。
そうした人々と関わることが多くなってくると、本人は気が付いていなくても、それらしき人は多く、その予備軍もあると思える。
精神疾患の例を 厚生労働省のHPから上げておく。 精神障害(精神疾患)の特性(代表例)
このHPには、もう一つ、発達障害といわれるものがある。 発達障害の特性(代表例)
この発達障害について勉強をすると、すべての人が発達障害ではないか?(自分を含めて)とも思えてくる。
そう考えると、一体、病気・病・疾患・障害というものは、何だろう?とも考えるのである。
そこで、病気について検索してみた。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
とあった。
つまり、身体であろうが精神であろうが、その本人が、不快や苦痛・痛みを感じ、通常(健康な)の生活が出来なくなる、しにくくなる状態。
という事であろう。
もう一つの、悪い癖や行い。という意味も見逃せない。
これは、本人が自覚しておらず、周囲が困った状態を含んでいると思う。
身体の病気ならば、痛みや苦痛は自分自身が感じて病院に行くものですが、精神の場合、特に小さい時から幻聴などが聞こえる場合は、それが当然の事と思って、病気と思えないのです。幻聴や幻覚が常に聞こえるという事は、寝る事もままならない、心も休まらないそういう状態がずっとあるという事で、精神や体調が大変不安定で、周囲は困惑するという人があるのです。(これは、特に発達障害に言える事だと思います。)
周囲の人には、幻聴は分からずに、どうしてだろうか?と悩むのです。本人も幻聴が聞こえるのが当然だから、それが原因だとは思わないで、他の原因を探すのです。
こういった事例も、今の医学では分かって来ています。
けれども、この原因をつかむまでが、大変です。それこそ、先生と本人とそして何よりも家族が相談することが必要なのです。
また、家系の中にそういう人がいなかったかというのも、原因を突き止める上の大切な情報でもあります。
こうした情報を集めて、整理して突き止めていく。それこそ、目に見えませんから、今問題になっている、新型コロナと同じです。感染者の情報を分析して、ようやく、目に見えないけれども、現れて来る症状で特定するしかないのです。
そして、その原因が特定できたときに、初めて薬という事が出てきます。
しかし、この薬も、本人がチャンと効いたかどうか、それもどういう感じで効いているのかを先生に伝えないと、うまくいかないのです。本人がうまく伝えられない場合もあるでしょう。そうした時は、周囲から見てどうだったかという、家族の情報も大切な情報なのです。家族の情報から本人が気が付く場合もあります。
そして、その症状にあった薬を探すのです。
ある躁鬱の方と話をした時に、「先生にはその薬が本当に効くものかどうかは分からない。ただ医学書に書いてあるからとか、前の人は効いたから。というだけのものだ」と聞きました。本当にそうだなぁと思いました。
それから、そうした病の人と話をする時には、先の話と共に「ちゃんと先生に隠さずに、薬がどのように効いたか話すのだよ」と話をして来ました。「案外、薬を出してもらったのだから、効いたと言わないといけない。先生に悪い。」と思ってしまう人があるのです。
まず、この事から注意が必要だと思っています。
そして、こうしたら良くなると理屈で攻めたり、焦らずに、気長にその方が気が付いてくれるように、相談を重ねることが大切だと思っています。もちろんおさづけは当然させて頂きますが。。。。
私自身、最初は理屈で攻めていました。ましてやいんねんだから、何とか心を変えましょう。それを探そうとしていました。しかし、ある時、車を停めて数歩離れた時に、「あれ?カギを掛けただろうか?」と思ったのです。そして車に戻ったのです。カギは掛けてありました。そして車を離れたら、また「あれ?カギを掛けただろうか?」と思ったのです。これを3回ほど繰り返しました。3回目に「これって、ひょっとしたら強迫観念では?」と思う心が湧いて来て、「精神の病の人の心ってこれなんだ。自分で自分の心をコントロールできないんだ。辛いんだ。」と思えました。そして、「南無天理王命様」と唱えて思い切ってその場を離れたところ、その不安な心は消えたのでした。それから、その病の大変さが分かり、親身になってその方の話を聞くようになったのです。
ですから、「神様が助けて下さいます。」とはっきりと言えます。でも心の事ですから、気が付く事は難しく、すっきりとした御守護を頂ける人は少ないです。でも、本当に真心こめて願えば、不思議なお働きは頂けるのです。
そのためにも、少しでも楽になる薬を探して、心の調子のよい時に、心を変えながら御守護に向かう事が良いのではないかと思っています。
心の病と言えば、『稿本天理教教祖伝 逸話編』に 48【待ってた、待ってた】
明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪(がっそう)のような髪をして、降りて来はる。怖い。」と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽くしたが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心するうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、
「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」
と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時に、ナライト十四才であった。
とあります。また、『正文遺韻抄』p162に
と心の身上の話があります。
二つの例を出しましたが、前者は「教祖にいんねんのある方で、引き寄せるための精神の身上」と思え、後者は「自分自身の前生のいんねんの現れ」と言えると思います。また前者はナライト様は14才ですので、家族の心とも思えます。
最後まで読んでくださいました方、ありがとうございました。
何かの参考になれば幸いです。
親神様、教祖どうぞ、結構なるお導きをお願いします。
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