昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(318頁より319頁まで)
(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)
11)結構の種
12)一の筆
ここに、一の筆という話が出てくる。
以前このブログにも書いたが、私はこの「一の筆」がとても気になっている。
ここには、上村吉三郎二代講元に、講元を譲ったのが、明治18年ごろとなっているが、「山田伊八郎伝」を見ると、72頁からに第3章教祖の御声一条(123頁まで)にこの背景が書かれている。
今この逸話を見て、目の前の本棚を見たところ、「山田伊八郎伝」が目について、ぱっと開いたところが、この部分の所であった。
この72頁からは、明治17年の事が記され、山田伊八郎先生が、おふでさきなどを熱心に写し頃の様である。
この時に、上村吉三郎さんの身上を助けて、入信へと導かれるのだが、これと同時に、教祖からの御言葉が頂けなくなるのである。
そして、講元を上村さんへ預けて、布教に専念するようにして、教祖のお言葉をもれなく書き留めると心定めて、明治18年3月に教祖からの御言葉を頂けるようになるのである。
そして、逸話にあるように、上村さん率いる人々のおつとめによって、最後のご苦労が行われて、そのご苦労の後の教祖のお言葉が、以前このブログで紹介したように、記録されている。
その様子を読むと、親神様は教祖の扉を閉めて、おたすけに出られている。不思議な働きを各地に現わしているように思えるのである。
公刊されているおさしづは、明治20年の教祖が現身を隠される直前の物からであるが、その時に「扉を閉まりて地をならそうか、扉を開いて」と言われている意味が、ここでつながるように思えるのである。
そして、「国の本尊を拵えたい」という事をも考え合わせると、もっともっと様々な事をこの一連の事、教祖のひながたのみならず、周囲のつとめ人衆の人々のことから思えるのである。
まだまだ、うまく表現できるまでは行っていないが、今回は「一の筆」に関する資料の場所を記録しておく。
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