12日に秋の大祭を無事に終えた。
大祭と言っても、普段の月次祭と何ら変わる事は無い。
変わるとしたら、大教会からの巡教があるくらいである。
そうした中に、今回の大祭は大教会からの巡教を受ける気になれず、お断りした。
これまでこうした事は無かった。
うちの大教会では大教会からの巡教がどんどん回数が減って行った。
私が会長になった頃には、年に4回ほどあった。
それが3回となり、春秋の大祭の2回となった。
なぜ減って行ったのか、当時大教会で力のある先生が巡教に行くことが嫌で、回数を減らしていったといううわさも耳にした。
その先生は、巡教直前に巡教先に断りを入れていたそうである。
こうした話を聞いた時に、こんな事ではどうなる事か。と良く思ったものである。
こちらからお願いして来て頂くには、集まっている信者が少なすぎる。
巡教があるから受ける。これが当然となっていた中に、段々と回数が減り、このコロナで、巡教を受けない行かない所ばかりになった。
私個人としては、受けて下さる所ならば行かせて頂く。
部内の教会へは毎月出かけて、変わらずにつとめてくるのである。
さて、
そして今までコロナで他の教会は断っても、うちは来てもらっていたのに、今回断る気持ちになったのだろうか?と自問自答した。
そこで答えが出たのが、聞くのではなく、話す機会にしなければならない。と思ったのである。
数年前、私が身上になってから、妻に毎月婦人会として話をしてもらうようにした。今ではすらすらと、私以上に分かりやすい話をしてくれている。
これだ。と思ったのである。
信者さん方は、ただただ受け身なのである。
この時だけでも、言葉を出す事。それによって、学ぶ機会にする事だと思ったのである。
そこで、この大祭を吉祥に、講話までも行かずとも、感話でも、感想でも順に話してもらう事にしたのである。
そして、初めてやってみて、良かったと思った。
これを続けて行きたい。
そうした大祭でした。
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