120頁から124頁までを掲載します。
飯降家が教祖のお言葉と櫟本の周囲の人々との板挟みにあい、身上の御守護から何度も心定めをしながらも、その実行がなかなか出来ず、最後には自分の子供の命をも思案に入れて、お屋敷へ入り込まれた様子がありありと書かれています。
書き間違いがあるとも思われますので、お気づきの方がありましたら、コメントでお教えくださいませ。
また海外の方で、自動翻訳で読まれる方も、意味が分からないところがありましたら、コメントでお知らせください。
では、
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明治5年、父様にとっては当時たった一人の男の子で、私のすぐ下の弟、政治郎が出直した。(7月1日近所の子供と”鬼ごっこ”をして遊んでいた時に、転んで頭を打ち、10日目に出直されたと聞く。伊)一時は父様も母様も大変気を落としておられたが、教祖は「何も案じる事は要らんで。今度は木の芽の吹くように返すで。先に名前をつけておくで。木ではジンほど固いものは無いやろ。”政甚”とつけておくで」とおっしゃったのや。
(この時、教祖は次の事を紙にお書きになって、本席様に授けられたと聞く。伊)
風よけはできてあれどもしまりなし
早くしまりのもようするなり
いつまでも暮らす場所を思案せよ
心定めて早くおちつけ
おちつけば着物食い物不自由なし
早く小人を返すことなり
この小人こんど返したことならば
これ日の元の棟梁となる
(現物は見せて頂いたことはないが、もっと仮名書きではなかろうか。為)
教祖のお言葉に間違いはなく、明治8年12月26日男の子が生まれたのや。教祖は「それ見や。男の子やろがな。先に名前つけたるで」とおっしゃって、お膝の上に抱き上げられ「この子はな、前生は便所の中に落ちたるご飯粒までも拾って、破れ衣で諸国を巡り歩かれた上人さんの生まれ変わりや。今生は一生楽遊びをするのやで」とおっしゃった。(はっきり弘法大師の生まれ変わりとおっしゃたとも聞く。とにかく政甚祖叔父は理のある御魂、またこのお言葉によって、おさづけの理は授けられなかったと聞く。伊)
それからも父様はまだ櫟本におられたが、不意に父様の眼が一夜の間に両方とも、ちょうど梅干しのように真っ赤になって、大変痛むので、すぐに教祖の許へ走ってお伺いすると、「案じる事は要らん。すぐに治るで。この屋敷へ帰る心にさえなったら何も思う事要らんやないか」とおっしゃった。
父様も母様も一度ならず幾度も心を定めて教祖のもとへ家族もろとも引き移る決心はして見るけれども、人々から止められたり自分でも迷ったりされたが、思い切ってその人たちには一時逃れの口実に、父様は「何分家族が多いので家が狭くて叶わんし、また金銭にも不自由するので行きますのや。」(一日も早く帰れという教祖のご催促が日増しに激しくなってくるので、伊蔵様も出来るだけ仕事を手控えられ、また日に何度も教祖のもとへ通われるので十分な仕事も出来ないため、事実、家の内は火の車で苦しく、近所の子供たちの不自由ないのと比べて、せめても子供のためにと駄菓子屋を始められたが、――この時、神様がお入込になり、伊蔵様は「せっちん紙(トイレットペーパー)か落とし紙(ゴミ紙)みたいな物を楽しんでいる。そんなもの、外の真中へ持って行って、捨ててしまえ」と言ったと――正直過ぎて月末の支払いを踏み倒されたりして却って借金をするばかりで、止められた事もあったと聞く。伊)と言うと「いや長年住み慣れた櫟本を出て、庄屋敷あたりへ行くことは要らん。あんな庄屋敷みたいな所へ何をしに行かれるのか。あんたは騙されているのや。お金がいるのならお金を出してあげる。家が狭ければ木材をどれだけでも出してあげるから、決して庄屋敷などへ行きなさるな」と、父様にとってはありがたいやら困るやらだが、みんな色々と親切に言ってくださる。そこで「これは神様のお言葉やから」と言うと、「どうでも行くというなら乞食する覚悟で行きなさい。そんなことはさせたくない」となおも止められる。
父様も、神様の思し召しと義理や人情とに挟まれて、一旦心を定めたものの、また心が戻ったりされたのや。
ある日の事、櫟本の神田武三郎という人にぜひにと頼まれて普請をしていた時、父様がいつものように手斧で木を削っていると、その木くずが右の足の親指の爪と肉との間に、1寸ほども入ったのや。すぐに教祖のもとへ帰ってお願いすると「案じる(心配する)事は要らんから、早く家族皆一緒に戻って来てくれ、わし一人放っておいてどうするのや。早く帰ってくれ」と前と同様の事をおっしゃって、父様の足に刺さった木くずを引き出して下さると、そのまま少しの痛みもなく助けて頂いたのやった。
この時も大決心して教祖のもとへ帰らせて頂くつもりだったのが、また一日延ばしになってしまったのや。
またある時、櫟本の高品という所の染物屋(紺屋の前田清兵衛という。伊)の普請中、今までにない事なのに、足場を踏み外して地面に転げ落ちられた。腰が抜けて自由に動けない父様は、すぐに戸板に載せられてお屋敷に帰ると、教祖は「何も案じる事は要らん。わし一人に任せといてどうするのや。今度こそは皆連れて帰ってくれ」と、前と同じ言葉だった。
(その後、二階堂村前栽の馬喰という所から、またも普請を頼みに来たのでお屋敷へ伏せ込まれるにしても少しのお金くらいは用意してと思われた本席様は、それをお引き受けになったが、木積もりが、間違ってやり直しをしなければならなくなったりして、かえって300円からの損をされたと聞く。伊)
その折りから、妹政枝は風眼という眼の病のお障りを受け、弟の政甚はものをいう事が出来ない、どもりとも、おしとも分からないお障りを頂いたのや。7日間ほど病んだだろうか。
今度こそはいよいよ父様も、どうでも教祖のもとへ帰らせてもらう決心をされると、二人の身上はケロッと助けて頂いた。本当に不思議な御守護やった。
母様はお礼参りに二人の子供を連れてお屋敷へ帰ると、教祖は「お里さんへ。政治郎ちゃんの事を覚えているか」とおっしゃるので、母様は「はい。覚えています」と答えると、教祖は「覚えていたらいいけれど、これからもしっかりしなさいよ」とおっしゃった。
なお、母様は「一日も早く教祖のお側へ帰らせて頂きたいのございますが、何分櫟本の人たちがあまりにも惜しがって下さいますので、その親切を振り切るわけにも参りませんので、教祖のお言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過ごしているような始末でございます。」と申し上げると、教祖は「人が好くから神も好くのや、人が惜しがる間は神も惜しがる。人からあれは年寄りや怠け者やと言われるようになれば、神も望みはしない。人の好く間は神も楽しみや」とおっしゃった。
母様は重ねて「何分小さい子供がございますから、子供が成長するまでお待ちくださいませ」と申し上げると、教祖は「子供のあるのが楽しみや、親ばっかりでは楽しみがない。早く帰っておいで」とおっしゃたのだった。
その頃、お道に対する世間の反対に加えて、時の官憲の圧迫が激しいのでやむなく秀司先生は、人間心とは知りながら、金剛山にある地福寺という寺の住職、日暮宥貞を社長とし、自分は副社長になって一つの仏式教会(転輪王講社と言った。伊)を設けて、明治13年旧8月26日(旧8月18日ではなかろうか。為)に社開きとして、門内で護摩焚きを行い、家の中では初めてのかぐらづとめをしたのだった。このために一時は少し世間の反対も穏やかになったけれど、また色々の事から反対圧迫された。その前(明治9年、なおその前、慶応3年には吉田官領允許願いの事あり。伊)から空風呂と宿屋業をしておったのだが、もとより教祖のご本意ではないが、何事につけても災難が教祖お一人の身にかかるのだから、人間心とは知りながらも手を変え品を変えて教祖の御身をかばおうとされたのや。
ここで大きな決心をされた父様は、母様に向かって「とても櫟本にいては教祖の御身を守る事が出来ないから、せめてお前だけでも教祖のお側へ常詰させてもらえ」と言って、明治14年11月(旧11月17日)だったと聞く。伊)(「ひとことはなし」の”翁の話”の中には、「明治14年9月頃より里女には子供を連れて屋敷へ来る」とあり。為)母様は妹政枝と弟政甚とを連れて、教祖のもとに帰らせて頂く事になり(この時、里様は48才、政枝祖母は10才。政甚祖叔父は7才だった。伊)父様と私は当分櫟本にとどまったのや。
そうして父様は、お屋敷へ通う暇に後々の片づけをして、いよいよ明治15年旧2月8日(太陽暦3月26日)すっかり櫟本の家を引き払って、これで皆んな教祖のお側へ帰らせてもらったのや。
この時、教祖は「これからは一つの世帯、一つの家内と定めて伏せ込んだ、万劫末代動いてはいかん。動かしてはならんで」とおっしゃった。
明治14年秀司先生が出直されてから(松恵様名義で経営されていたと聞く。伊)一時中断しようとしていた宿屋と空風呂業は、15年4月1日から母様の名義で営業されることになったのだった。
明治15年旧9月16日、さきに認可されていた仏式教会(秀司先生御出直し後は、松恵様が副社長であった。伊)が、にわかに解散を命ぜられて、その時出張ってきた警官の言うには「転輪王命というような神は絶対にない神や、また神仏混淆はいかん。故に今後はどこまでも圧制してしまえという政府の命令だからそのつもりでおれ。」と言うて、その日すなわち9月16日、早速教祖を奈良の監獄へ引っ張って10日間の拘留にしたのや。(16日に刑事出張し来り、翌17日召喚状を発したるにより、18日御出頭、「ひとことはなし」の”毎日づとめ”参照。為)
以上です。
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121頁に、
(一日も早く帰れという教祖のご催促が日増しに激しくなってくるので、伊蔵様も出来るだけ仕事を手控えられ、また日に何度も教祖のもとへ通われるので十分な仕事も出来ないため、事実、家の内は火の車で苦しく、近所の子供たちの不自由ないのと比べて、せめても子供のためにと駄菓子屋を始められたが、――この時、神様がお入込になり、伊蔵様は「せっちん紙(トイレットペーパー)か落とし紙(ゴミ紙)みたいな物を楽しんでいる。そんなもの、外の真中へ持って行って、捨ててしまえ」と言ったと――正直過ぎて月末の支払いを踏み倒されたりして却って借金をするばかりで、止められた事もあったと聞く。伊)
と記されている。
明治8年に飯降伊蔵先生は「言上の許し」を頂かれているが、時折神様が入り込まれて言葉を出された事例だと思う。
「改訂天理教事典」55頁に
「明治9年9月、こかん出直し。伊蔵は中南の門屋の普請に掛かっていた。さとは子供の小遣いにでもと小店をだしたが、貸し倒れなどで間もなく廃業。
この頃、伊蔵はよく夜中に起き上がり、「国々所々名称の旗や提灯立てに来るで。」などと言ったが、自分では覚えていなかった。この前後に、伊蔵は「言上の許し」を頂いた。
と記されている。
ともかく、自分の家業と共に、神様への伺いなど、どのような生活をされていたのだろうかと思う。
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参考までに、飯降家の家系図と、おさと様、政甚様、よしえ様の事を
「改訂 天理教事典」から張り付けておきます。
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次回は、
監獄へ拘留される様子や警察からの弾圧の様子などが、克明に記されています。
今、個人がリアルタイムで発信が出来る時代でありますが、中国共産党の人権弾圧のみならず、権力者が検察などを使って不当に弾圧する情報も出されており、教祖の時代と変わらない事が行われていると思いました。
そして、その不当な弾圧の言葉を信じて、それに加担をする周囲の人々の様子も同じと思われました。
陽気ぐらし世界実現の一助となりますように。
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