4月6日に、教理の勉強の一端にでもなればと、「先人の遺した教話3」から、一部を紹介した。
これまで最高の閲覧者数55名が、翌日7日には一気に86名となり、閲覧数は149を数えた。
関心のある方が多いと感じた。
さて、先の時に紹介したのは、最後のご苦労後の教祖の様子だったが、そのあとのページには、その様子の理由が書かれている。
今回は、訳まで載せておいたので、思案しやすいかと思う。
もし、この本が全部読みたいと思う方は、道友社へ問い合わせて頂ければ良いかと思います。
86頁から添付してみます。明治19年5月3日 旧暦4月3日 のお言葉です。
監獄所から出られて、教祖はおつとめを急き込まれますが、皆はまた監獄所へ連れていかれでもしたらと、おつとめに踏み出せなかった。また、今度は教祖ではなく、5月25日には、初代真柱様が警察署の取り調べを受けるようになってきます。
その中、7月21日(旧暦6月20日)「四方暗く成りて分かりなき様になる、其のときつとめの手、曖昧なることにはならんから、つとめの手、稽古せよ」と仰せられます。(「改訂 天理教事典」年表より)
この後、明治20年1月1日(旧12月8日)に教祖はお風呂からお出ましの時に、ふとよろめかれて、「これは、世界の動くしるしや」と仰せられて、この後御気分が悪くなられた。と「稿本天理教教祖伝」に記されています。
ということは、この5月あたりでは、寝ておられたのが、うちに対して指示されたおつとめの稽古も行われて、御気分が良くなって来ておられたという事と思います。
これから後の事は、「稿本天理教教祖伝」10章扉開いての部分となります。
さて、今回私が話題にしたかったのは、教祖が目も見えず、耳も聞こえずという状態は、親神様が仕事をされていた、扉をしめて外に出て、世界の上に働いておられたのが理由だと、確信したのです。
私たちは、目に見える事で、色々と思案します。
今現在であれば、コロナウィルスの蔓延で、そのコロナをどうにかする事ばかりに思案が行きがちです。
しかし、親神様は、そうしたコロナを通して、私たち内の者にも、世界の人の上にもメッセージを与え、その裏側で働いていて下さっていると思うのです。
どうぞ、親神様、大難は小難にお守りくださいませ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます