愛知大教会では、大教会史が3巻まで発行された。
この教会史を作成されたのは、大教会役員で、平針分教会の前会長 安井忠義先生である。
平成25年11月に86歳でお出直しになられた。
愛知大教会は、太平洋戦争で全焼して、それまでの資料はすべて焼失してしまった。
その資料を埋めるべく、先生は青年当時から各地の教会を廻って、昔の事を聞き、他教会に残っている史料を書き写して、自ら史料を作られて、この3巻の教会史が出来上がった。
その中で、教会史に書かれていない話で、安井先生から聞いた話がある。
それは、小牧大教会初代会長の初めの奥さん ふささんとの事である。
まず、
小牧大教会の初代は、市村末彦先生だが、この方をお道に手びいた切っ掛けとなったのが、初めの奥さんである。
この奥さんは、市村先生の親方 石崎金太郎の奥さんで、石崎ふさと言った。
柴田九兵衛先生の紹介で、自らの目の身上を橋本伊平先生におたすけを頂かれ、主人と共にお道に入信した。
そして当時職人として雇われていた市村末彦さんに、神様に願ってみないかと伊平先生を紹介し、市村先生は不思議なおたすけを頂かれて、入信しおたすけに歩かれるようになる。
そして、この石崎金太郎先生は熱田分教会の初代会長となるが、一年ほどで急に出直し、代わりに2代会長に愛知の初代会長、諸井松太郎(清麿)先生が就任するが、石崎ふささんはそのまま熱田分教会の信者さんを丹精していた。
そして同時期に市村末彦先生も小牧大教会の初代会長となった。
数年後、愛知事情によって諸井清麿先生は愛知の初代会長を辞職したために、熱田分教会の2代会長も辞職され、後任に大教会の住み込みの柴田役員先生が家族で熱田に入り込む事なった。
この事から、誰の案かは全く分からないが、「小牧の市村に石崎ふささんを」という話が持ち上がり、市村末彦先生と石崎ふささんは一緒になり、小牧の道を着ける事になる。
今ならば考えられない結婚である。奥さんは年上、それも親方の奥さんである。
さて、ここからが本題
いつの時かは分からないが、市村先生は奥さんと別れようと思った事があったそうである。
すると、不思議な御守護を頂いた足が痛み出して、また昔のいざりだった時の足に戻りかけたという話である。
あわてて市村先生は親神様にお詫びをしたところ、痛みは治まりいざりの足にならなかったというのである。
これは、市村先生の日記に記してあり、それを書き写したものがあるとの事だった。
(市村先生の日記は、台風の被害で紛失されたとの事。)
誰が言い出して決まった結婚か分からないが、別れようとした途端に足が戻りそうになったとは、この結婚が親神様の深い思し召しの上にあった事を証明する事柄だと思った。
もう少し
後に奥さんのふささんが出直されると、多くの借金取りが小牧に詰め寄ったとの事である。どれだけこの奥さんの働きで、周囲の人が治まり、市村先生が道の上に、愛知の上に、小牧の上に勤める事が出来たかと、「奥さんの影のつとめ」ありきの「市村先生の表のつとめ」と思うばかりである。
さらに、その後は、この借金を返済する上に、多くの人が話し合い、北海道開拓を志したがとん挫し、これで借金は返済する事は出来なかった。
その後、婦人たちが話し合い、力を寄せて借金は返済されたとの事である。
これまた、婦人の力の素晴らしさを象徴する出来事と思った。
婦人の皆様 ありがとうございます。m(_ _)m
この教会史を作成されたのは、大教会役員で、平針分教会の前会長 安井忠義先生である。
平成25年11月に86歳でお出直しになられた。
愛知大教会は、太平洋戦争で全焼して、それまでの資料はすべて焼失してしまった。
その資料を埋めるべく、先生は青年当時から各地の教会を廻って、昔の事を聞き、他教会に残っている史料を書き写して、自ら史料を作られて、この3巻の教会史が出来上がった。
その中で、教会史に書かれていない話で、安井先生から聞いた話がある。
それは、小牧大教会初代会長の初めの奥さん ふささんとの事である。
まず、
小牧大教会の初代は、市村末彦先生だが、この方をお道に手びいた切っ掛けとなったのが、初めの奥さんである。
この奥さんは、市村先生の親方 石崎金太郎の奥さんで、石崎ふさと言った。
柴田九兵衛先生の紹介で、自らの目の身上を橋本伊平先生におたすけを頂かれ、主人と共にお道に入信した。
そして当時職人として雇われていた市村末彦さんに、神様に願ってみないかと伊平先生を紹介し、市村先生は不思議なおたすけを頂かれて、入信しおたすけに歩かれるようになる。
そして、この石崎金太郎先生は熱田分教会の初代会長となるが、一年ほどで急に出直し、代わりに2代会長に愛知の初代会長、諸井松太郎(清麿)先生が就任するが、石崎ふささんはそのまま熱田分教会の信者さんを丹精していた。
そして同時期に市村末彦先生も小牧大教会の初代会長となった。
数年後、愛知事情によって諸井清麿先生は愛知の初代会長を辞職したために、熱田分教会の2代会長も辞職され、後任に大教会の住み込みの柴田役員先生が家族で熱田に入り込む事なった。
この事から、誰の案かは全く分からないが、「小牧の市村に石崎ふささんを」という話が持ち上がり、市村末彦先生と石崎ふささんは一緒になり、小牧の道を着ける事になる。
今ならば考えられない結婚である。奥さんは年上、それも親方の奥さんである。
さて、ここからが本題
いつの時かは分からないが、市村先生は奥さんと別れようと思った事があったそうである。
すると、不思議な御守護を頂いた足が痛み出して、また昔のいざりだった時の足に戻りかけたという話である。
あわてて市村先生は親神様にお詫びをしたところ、痛みは治まりいざりの足にならなかったというのである。
これは、市村先生の日記に記してあり、それを書き写したものがあるとの事だった。
(市村先生の日記は、台風の被害で紛失されたとの事。)
誰が言い出して決まった結婚か分からないが、別れようとした途端に足が戻りそうになったとは、この結婚が親神様の深い思し召しの上にあった事を証明する事柄だと思った。
もう少し
後に奥さんのふささんが出直されると、多くの借金取りが小牧に詰め寄ったとの事である。どれだけこの奥さんの働きで、周囲の人が治まり、市村先生が道の上に、愛知の上に、小牧の上に勤める事が出来たかと、「奥さんの影のつとめ」ありきの「市村先生の表のつとめ」と思うばかりである。
さらに、その後は、この借金を返済する上に、多くの人が話し合い、北海道開拓を志したがとん挫し、これで借金は返済する事は出来なかった。
その後、婦人たちが話し合い、力を寄せて借金は返済されたとの事である。
これまた、婦人の力の素晴らしさを象徴する出来事と思った。
婦人の皆様 ありがとうございます。m(_ _)m
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