「この先は寄せた道具を見分けして 仕込む模様を急ぐばかりや」
とおふでさきにある。
親神様は、子数の年限を待ちわびて、月日の社の教祖に入り込まれた。
そして、魂のいんねんある人々を、庄屋敷へ引き寄せて、仕込みをされた。
それまでは、人間を育てる上に、医者薬、拝み祈祷や易判断などなどを教えて、難儀苦しむのを助けて来た。
これは「修理や肥に医者薬を」と言われるところである。
また、世界にほこりが立つ時には、とその難病を和らげる上に、薬草を教えて風呂に入るようにと教えられたことも正文遺韻に記されていることから、その場しのぎのものとして教えられて来たと言える。
親神様がこの世の表に現れてから、今日までまだ、医者も薬も要らない陽気づくめの世の中にはなっていない。
反対に「おさづけでたすからから、医者はいらない」と言った人々に、「医者の手余り神が助ける」と、「まずは医者に掛かって、それでも治らないという場合に、治ったならばそれが神の不思議だ」と、政府からの弾圧があった時に示された。
この事で、医者薬とおさづけなどによる助けの併用が一般的に言われるようになった。
これを今思案すると、本来は何といっても、「心の切り替えが重要なのだが、その心の切り替えを考えずに、身上を助かる事だけに思いが行き、傲慢になっている人々への警鐘」と思える。
現在では、その切り替えるべき心自体がままならないのである。
そして現在は、そのままならない事を承知で、薬の世話になり、薬の助けを借りて辛さをしのいで、心を変える道があると私は思っている。
また「いんねんならば通らにゃならん」と言われるごとく、前生の通り返しで見せられる身上や事情があり、それは「ただただ詫びて、親神様の導きに感謝して、その返しが済む」ことを願う「たんのう」しかないのである。
親神様は、身上や事情を大難は小難にと親心でして下さっている。
また、それが現れる事を、先延ばしにして下さっている。
しかし、心澄ます上にも、前生の借りは必ず返さねばならない。
人間はみな平等なので、悲しませたらそのかやしは、必ず悲しませた者にしなければ平等にはならないのである。これが天の帳面の話の根本であると思う。
そして、こと道具衆として見定めた人々には、その身上事情が次々と現れてくる。
一般の人々ならば、前生へと持ち越すはずの物さえも、早く良い道具としたいがために。。。
この事を理解した時、なるほどと思った。
先日「赤きもの・白きもの・黒きもの」について、ある方のコメントに思うところを少しだけ書いた。
赤き者は、教祖の如く、心澄み切り親神様のお心が映り、先の見える人。
黒き者は、自分の思いばかりでほこりを積み重ねて、先が全く見えない人。
白き者はその間にあり、心を澄ます努力をすれば、赤き者にもなれ、我が身思案に陥れば黒き者にもなるものである。
この「赤き者・白き者・黒きもの」はおさしづに出てくる。
生まれ出たら、すべての人は前生の記憶はなく、白紙なのである。
それが周囲の環境、自分の持ちこした性分から、様々な事を思い、赤へも黒へも行くのである。
この赤き者になり、先がわかる事で、他の人々を陽気ぐらしへと導いて行く事が出来るのである。
その様にしたいと思ったのが、お屋敷に寄せられた道具衆、人足やしろと言われた人々だと思うのだが、そうした人々も、親神様の思い通りにはならなかった。
その代表が、秀司様であろう。
そしてこれらの道具衆は、元はじまりの時の道具衆の神様の魂である。
つまり、親神様が神様を仕込んでいるともいえるだろう。
神様の魂ならば教祖や本席様のように、親神様のお言葉が聞こえても良いだろうに。。と思った時に、
神様の魂を、人間世界に生まれさせて、教祖とは違い、神の言葉が聞こえない普通の人間にして見たらどうなるのかという試しをしたとも思えるのである。
また、教祖の同様に、親神様のお言葉が聞こえた「こかん」様は、親神様の思召し通りにされずに、出直されている。
そうした中に、先日かんろについて書いたように、甘露台を建ててカンロを授けて不思議を現し、人々の心を変えるという計画から、人間の心を澄ますことを先にするというように計画を変えられたのは、そうした試しからであろうとも思うのである。
では、立教以来、人間の心は澄んで来た、成人して来たのだろうか?と考える。
そしてまた、「働くという事は、ハタハタを楽にさせるから働くという」との教祖のお言葉が、一般で使われるようになってきているのである。
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