あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

無事に春の大祭終えました。。。創立130年。。そして親神様の導きなければ。。

2022年01月13日 07時42分27秒 | 思った事

昨日、2022年1月12日(立教185年・令和4年)

無事に春の大祭をつとめ終えました。

大教会長様に巡教いただき、ここ数カ月と変わらない人数でつとめさせて頂きました。

そこで、今年6月12日(日)の月次祭を、創立130周年記念祭と銘打って、合わせてつとめさせて頂く事、そこへ大教会長さんに来て頂く事をお願いしました。

面白い事に、今年12日が日曜日になるのは、この日しかないのです。

お運びをして別の日に設定する事も良いのですが、私にそこまでの気持ちがありませんので、月次祭が日曜日となる日とすると、6月となります。

さらには、そのように考えた時、この6月というのは、設立のお許しを頂いた月でもあります。

また、この日は次男の誕生日です。

今の世界の状況で、その時どのような事になるか分かりませんが、一つ定めて、この日には部内の信者さんや、縁者の方で来れる方来て頂いて、熱田分教会の歴史を振り返り、それを通して親神様のお働きを共々に感じられる日になればと思っています。

 

・・・

さて、連休が明けた11日、膿んでいた右足は、大祭の準備があるので、夜最終で病院に行こうと決めて、準備を進めていた。すると徐々にかゆみが出始め、病院に行く頃には痛みに代わって来た。

そして病院に行くと、傷口はかさぶたでふさがれて、その中で血が溜まってきたようである。そこで、今一度傷口と出血する内部を掃除して、違う抗生剤を処方してもらう事になった。

そこで、以前の事を思い出した。

以前も、一度目の抗生剤で腫れが引かず、別の抗生剤を処方してもらい、2度目の時に治まったのであった。

つまり、一言に抗生剤というが、それには何種類もあり、すべてのばい菌に聞く薬という訳ではなく、膿の元になっているばい菌に対応した抗生剤を探すことが大切なのである。

大きな病院ならば、血液検査などで病源体を特定する機械などがあるかもしれないが、町医者ではすぐには無い。また、見てすぐの投薬となれば、当たるも八卦、当たらぬも八卦で、その先生の見立てに寄るわけである。

以前にも書いたが、医者も知識・経験・技術によって様々である。

医者も薬がなければ、治療は出来ない。

そしてその医者の後ろにいる製薬会社が、どのような薬を作っているかにもよるのである。

何が言いたいのかと言えば、医者として一括りに、どんな病気も直してくれると思う事は違うという事である。

今の抗生剤と同様に、その病気に特化した医者もいれば、そうした知識を持っていない医者もあり、そのお医者さんが求める薬を造れる製薬会社が後ろにいるかどうかにもよるのである。

そう考えたら、良い医者を探すだけではなく、良い製薬会社も探さねばならない事になるのである。

さらに言いたいことは、

では、緊急時に、そうした事が出来るであろうかという事である。

私の足の腫れは、緊急時ともいえる。

まだ足だけで済んでいるからこのような事を書いておられるが、これが太もものリンパ節が腫れるような事になっていれば、もっと大変な事になるのである。

新型コロナ、そしてそのワクチンの事から、自然免疫がどれだけ素晴らしく、大切なものか十分に分かったはずである。

そして、その自然免疫を補うものが薬でなければならず、それを損傷するようなものは毒であると実感した。

そしてまた、「緊急時にそうした良い医者、良い薬を探すことは可能か」、という事を考えたら、それは不可能だろう。

請われるままに来る救急隊、その人たちが探す医者など、すべて人任せとなる。

つまりは、自分の意思ではなく、「人は神」と言われる如く、神任せなのである。

 

すべて自分の思いのままになっていると思う事が、大きな誤りである。

自分の思いのままにできることを、許されているだけなのである。

昨今、突然死の話をよく聞く。

この場合、全くもって、自分の意のままにはならないのである。

これも神の采配の一つと考えておく必要があろう。

 

陽気ぐらしとは、「人間が互いに楽しく暮らすさまを見て、神も共に楽しみたい」と思われて創られた、その思いの中にある。

「神も共に楽しむ」この言葉がとても重要である。

神様が楽しまれるのは、人間から声を掛け、お礼を言い、神様が楽しむことをするから、神も共に楽しめるのである。

人間がその思いを持たずに、自分だけの思いで、神を無き者にしたらどうなるのか。。

分かると思う。

 

神様の受け取りは、誠真実である。

(敷島大教会で出されている「山田伊八郎文書」の中で、教祖が最後のご苦労を終えられた後だったかに、目も見えず声も聞こえずという状態になられた時に、石板に文字を書いて、神意を尋ねられた記述があったように記憶しているが、そうした中に、「誠真実の声は聞こえるが、そうでないものの声は聞こえない」というものがあったように思う。また、これと同じ事を他の書物にもあったように記憶している)

誠真実とは「心と言葉と行いが一致したものである」

嫌ならばいやだと思い、そのように行動したらよいのである。

そうすれば、それを受け取って、神様は良いように導いて下さる。

反対に、嫌だと思いながら、良い顔をして返事をして行わない事が、一番悪く、親神様の良き導きは無くなる。

それを繰り返しての今日である。

 

教祖が現身を隠される前の、真柱様と神様との問答。

そして、その後の道の歩み。親神様の不思議な働き。

これをこのような観点で見たら、また感じることも違うのではないだろうか。

 

さて、今日は午前中病院、その後明日の支部例会のための資料を作成して、夜先日亡くなられた方のお宅へ行かせて頂く事にしている。

大祭執行の御礼とお下がり配りは、奥さんに行ってもらう。

問題は、支部例会の資料が出来るかどうかだ。。。

まぁ成るよう行くよう努めたいと思う。

 

 

 

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ご本部の神殿奉仕にて。。やはり不思議で親神様は導いてくれている。。

2022年01月09日 09時47分44秒 | 思った事

昨日はご本部の神殿奉仕をつとめさせて頂いた。

そこでとても不思議な事を見せて頂いた。

前回、左の耳が痛むことを書いたのだが、その事についてである。

先ず、左の耳が痛み始めた時、以前の事を思い出して、「誠真実をつくさねば」ならない。と思った。

しかし、「誠真実」と言っても、何をして良いか分からない。

そこで色々と思案をしながら、一昨日、思うままにフェイスブックへ投稿した時に、痛みが無くなった。そして、昨日神殿奉仕に出かける前に、先回のブログを投稿して痛みが無くなった。さらに、神殿奉仕に出かける前、まだ時間があり、詰所の事務所へ立ち寄ると痛みだして、期日間際でやり忘れている事を思い出して、それをした途端に痛みが無くなった。不思議だなぁと思いつつ、神殿奉仕へ出かけたところ、また痛みだして「一体親神様は何をさせようとしているのか。自分の性分は。。。」などと考えながら朝づとめを終えたとたん、痛みが無くなり、今の今まで痛みがなかったのである。

(今、朝づとめへ行く前なのだが、痛みが出はじめて来たので、書き始めた。)

 

この突然の左の耳の痛みは、以前に経験して、その時には先ほど書いたように、「誠真実をつくさせて頂きます」と心定めた時に、先ほどまで痛んで仕方がなかったものが急に楽になり、名古屋に帰るまでに治ったのであった。

まずはその事から書いてみる。

 

以前、神殿奉仕で同じ身上を見せて頂いた時は、愛知部内の教会事情解決に対して、役目から関わる事になっていた時である。

その会長や周囲の者たちが、自分の思いばかりを述べるばかりで、事情に対して自らを全く反省する様子もないために、「もう関わる事はやめよう」と思っていた時であった。

「誠真実をつくします」と定めて、この事を思い出して、「どうなるか分からないが、成るよう行くよう、その時その時に思い浮かばせて頂く事で対応しよう」と思って、名古屋へ帰ったのであった。

そして、そのように対応して、今日である。

 

さて、今回の事では、そうした事が思い浮かばずに、先ほど書いたようにして過ごしてきた。

 

次は、朝づとめ前に思案していた「自分の性分」について書いてみる。

身上事情から、思し召しを思案する場合、性分がとても重要である。

自分の場合はどうかと言えば、私は丑年である。

我ながら「こって牛」だと思っている。

日頃のそのそとして動きは悪い。何をしているのか分からないような行動ばかりしている。しかし、こうと決めたらてこでも動かない。反対に心思う事が出来ると、なりふり構わず走り回る。そして、定めた事を守り通そうとするのだが、周囲の理解が得られないと「もうどうなっても良い」とあきらめるのも早い。

昨日のFacebookと、神殿奉仕へ来る前にブログに思いを書いて一時痛みが軽くなったわけで、なかなかお道の話と世上の話、整合させるのは難しくて、理解は得られないけれども、やはりネットでの書き込みは続けねばならないなぁ。

と、こんな事を朝づとめ前に考えていたのである。

新型コロナの緊急事態宣言などで、行動が制限された事で、時間に余裕があって「復元」も「トラさんの記録」も、様々な情報を収集記録する事も出来たが、動き出すと時間に余裕がなくなって来て、どうしようかと思っていたところでもある。

さて、

朝づとめが終わって、気がつくと、耳の痛みが無くなっている。

違和感も全くないのである。ビックリである。

着座の合間に、教祖殿・祖霊殿へと廻り、「この世界の事情の中、世界中の方々へ親神様のお話が少しでも伝わり、人のためにと心する事が常識となりますように」などと考えていた。

また、今回は「おふでさき」の注釈付きを持って行ったので、それを読み返して、先日共有した動画で思い浮かんだ、へんぴな所への参り場所の記述を探した。

あった。2号16の註釈で、特に「うちわけ場所」について書かれていた文中であった。

うちわけ場所は将来、内・中・外とそれぞれ31カ所ずつ、合計93カ所出来るとの事で、その中の一つがとてもへんぴな所に出来るとの事である。

 

さらに、元旦祭にお供えされたお餅の下付が、10時から13時まで行われた。

新型コロナ以前であれば、今日から「おせち会」で残ったお餅の下付が始まるのだが、今年は5日から7日(例年のおせち会の日にち)に下付されたが、残ったので、8日も延長したとの事で、この残りは、9日に直属教会ごとに下付されるとの事だった。

コロナ以前、このお餅の下付にはとても大勢の人が並び、手渡す手伝いを私たち奉仕者がさせて頂いたのだが、さすがに2年も間が空き、この下付に関する事は報じられないので、頂ける方が少ないのも仕方がない。

反対に、頂けた方は「とてもラッキー」だと思った。

 

今日9日、朝づとめ前から書き始めたわけだが、耳が痛む中、朝づとめに行かせて頂きながら思ったことを書いておく。

人間は生まれ変わり出変わりをする。(まず、これを真実と思うか思わないかで、人は分かれるのだが、それはともかく置いて置いて。。。)

生まれ変わり出変わりの回数、前回どのように悟れ、学べたかによって、今世の気づきも変ってくる。

人間の成長に例えたならば、子どもは子供の考え方をする。青年は青年の考え方、それらを経て壮年、さらには老人と考え方は変化するのである。

子供・青年については、分かりやすいと思う。(その後の壮年・老年については、その人々の経験と悟りがとても重要と思われるのだが、これも置いて置く)

ところが、この子供・青年期に行わねばならぬことを、壮年・老年の人の影響が強すぎて出来ずに、その時に学ぶ事が出来なかったらどうか、という事を思ったのである。

以前どこかで書いたと思うが、15才までの子供の身上や事情は親の心の現れと教えられるが、15才までに親が子供の身上事情から心を改めていなければ、15才以降も親の心の懴悔を求められる事情が現れるのである。

そして、幼い子供でも、少しの経験でもすぐに悟って、多くの事を学ぶ人もあれば、沢山失敗をしてようやく悟り学べる人もある事を思った時、人を助けるのは、親神様であり、私たちは自分の与えられた役割を、自分の徳一杯にさせて頂けば良いのだと思ったのである。

「親子でも夫婦の仲も兄弟も みなそれぞれに心違うで」とおふでさきにある。

それぞれに徳分はみな違うのである。

私は私の徳分、精一杯。

つたない文章でも、こうしてブログに思いを書き続けることも、一つの役目なのだろう。

とそんな風に思ったのである。

 

大教会の会報は、卒業させて頂いたが、このブログや資料の作成は、親神様がもう十分だ、お前の役割は終わったと言われるまで、やらせてもらわなければならないとも思った次第である。

 

次の予定の時刻が来ました。

書きなぐって投稿します。お許しください。

 

今日一日も、何があるのだろうかと、楽しみながら過ごしたいと思います。

ありがとうございました。

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1月3日に夫婦でおぢばがえり。。足が腫れた。。ここ数日の事を。。心配。。

2022年01月08日 04時48分21秒 | 思った事

フェイスブックでは携帯から発信しているので、すでに報じた事なのだが、詳しくは書いていないので。。。

1月3日には夫婦でおぢばがえりをした。

うちの教会では、年4回、おせち会、春、こどもおぢばがえり、秋の4回団参を行ってきた。

このコロナ禍で、それぞれに思い方が異なるのと、本部の行事が無くなるので、行事に向けた団参は難しくなる。

しかし、皆さんに声を掛けるのはかけて、昨年も年4回、各自で出かける団参を行った。

そうした中に、今年のおせち会は中止となっており、私としては、元旦祭に家族そろって参拝に行きたいと思った。

しかし、妻の新聞配達を考えると無理である。

そうした時に、妻から「お供えされたお餅が飾られているのを見た事が無い。見たい」と話があった。

ならば、2日か3日に行こうと決まった。

2日は新年会をする事にしたので、3日を団参の日と定めて、皆さんに連絡をした。

案の定、誰もなく、家族だけの団参となった。

ところが、この家族も、子供たちが2日の新年会で、夜カラオケに行き、朝起きられない。

これも一つと、夫婦だけで、おぢばから帰って来ていた長女を送りがてらの参拝となったのである。

11時頃おぢばに着くと、普通の日曜日より少し多い感じの参拝者がある。

やっぱりおぢばは良いなぁと、記念写真を南礼拝場前で撮りあう。

 

南礼拝場へ上がると、上段の左右の柱に、凭れかけるように、一周させて高くお餅が積まれている。

今年は1教会3合との通達があり、例年の半分以下である。

5・6年前、本部の神殿奉仕に出るようになった次の年、12月31日の当番を指名頂き、つとめた時には、柱の周りに2周3周として、高くお餅が重ねられていた。

それを思うととても少ない、しかしそれでも、昨年は、お餅の御供が中止となっていた事を思うと、御供の声が掛かって良かったと思った。

 

おぢばからの帰り道、段々と右足の甲が腫れてきている事が感じられた。

数日前、座めタコを削ったのであるが、そこから菌が入ったようである。

数年前にも同じように座りタコを削ったところ、菌が入って膿んだ。これは年末で、膿んで歩けなくなるほど腫れるのに1週間ほどあった。色々と思案をしてつとめて見たが、何ともならずに病院が年末の休みに入る数日前に行くこととなり、年末年始の休み中、穴の開いたところに消毒した脱脂綿を詰めた状態で年を越した。

今回はあっという間で、特におさづけをしてもらってからが早く、本当にあっという間にゾウの足のように腫れて病院に行く事になった。

病院で麻酔の注射を打つ時点で、膿が噴き出しており、治療後、先生曰く、すごく膿が出たとの事。

5日に診察に行き、膿が出た穴を見たところ、前回よりもずっと浅い穴だった。

右足なので、自分の癖性分・悪いんねんの現れと悟り、先ほど書いたように、大難は小難に、小難を無難にとお守り頂いた事を感謝させて頂いた。

そして、病院に行って分かったことは、血圧が150-90ととても高かった事であり、これまでならばそれだけ高ければ、頭が痛み、横にならずには居られない所、全く痛みがなかった事である。

5日病院に行ってから、より一層足の腫れと痛みが無くなるとは反対に、左の側頭部・左耳のあたりが痛みだし、何ともはや不思議と思いながら、「左は行え」という事、そして以前ご本部の神殿奉仕で夜中に突然左耳が痛みだして、「誠真実をつくさせて頂きます」と、嫌気のさしていた案件に再度取り組むことを心定めたところ、不思議と痛みが無くなったことを思い出して、フェイスブックに思う事を書き込んだ。すると、突然その痛みが軽くなった。

これまた不思議である。その後うちの血圧計で測ると、175-95となっていた。

何度計っても、その数字で、これまた不思議を感じて休んだ。

 

6日バイトが入っており、出かける。足の痛みもほとんどなく、病院の診察にも最終で間に合った。

全く受診する人がいない事に驚いた。

 

7日、支部の臨時常任役員会議、来年度は支部長交代・役職交代となるため、新支部長の元役職の相談を行い、来年度の行事について相談をする。

これで資料を作り、14日の支部例会の後、今一度常任役員会議で決定をする事となる。

午後1時から5時までかかった。それでも皆さんが様々な意見を出して下さり、とてもよい会議になったと思う。

その後、病院への受診。

腫れも引いたが、出血が治まらない。

これから3日の連休になる。前回の年末年始の連休よりも短いが、これがちょうど、本部の神殿奉仕と重なるわけで、なんだか不思議な気がする。

 

これから本部の神殿奉仕へ向かうのだが、早く目が覚めたので今書いている。

世の中が次々と変化してきている。

すでに、新型コロナに関して、政府や医療がおかしい事が分かった方もある事と思う。

おぢばへ向う道中、ユーチューブの「闇のクマさん」の「毎日新聞」に関する動画を共有した。

【辛坊治郎氏衝撃のツイート!『毎日新聞が中国共産党政府から広告費として巨額の金を受け取っているのは公然の事実』】立憲民主党から元TBS記者への資金提供だけじゃない!お金に汚いおパヨ達!チャイナウォッチ - YouTube

こうした新聞の加担、偏向報道については、アメリカ大統領選挙から、気がついて書いて来たが、世間では知らない人々が多く、驚きの連続のようで、共有してからあっという間に100件近くの「いいね」が押され、様々なコメントがついた。

これまで、「安心安全」「間違いない」と思ってきた団体が、詐欺まがいな事をしている事が、表に出はじめ、多くの人々が驚き、認識するようになってきている。

これからの注意が必要である。

「騙された」と思う人々の、心理・行動が心配である。

ロックフェラー財団のコロナパンデミック予言の謎(林千勝) - YouTube

新聞でもテレビでも、すべての報道がウソという訳ではない。

けれども、「騙された」と思うと、すべてがウソと思い込みやすいのである。

私も一時期そうであった。

そして、行動が過激になりやすいのである。

 

また、以前YouTubeで、削除された方が、YouTubeの方から間違いであったとの連絡があり、復帰をしたとの動画も共有した。(海外の方で、その方の動画を和訳された動画を共有した)

これまで陰謀論として、マスメディアから非難されていた方である。

サイモン・パークス〜1月5日最新情報(パート2)〜 - YouTube

これからである。

これまで隠されて来たウソがより一層表に出てくる。

親神様の掃除が本格化する。

今一度書いておくが、騙されたと思っても、冷静に心を保ち、考え行動するように心がけることが大切である。

こうなってくると情報は自分で考えて精査するしかないのである。

 

では、これからご本部の神殿奉仕です。

親神様のお側で、何を悟らせて頂けるか、楽しみに行ってきます。

 

左耳があまりにも痛むので、治まる事を願い、思う事をそのまま書きました。

皆様方の参考になれば幸いです。

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新年あけましておめでとうございます。(立教185年、令和4年、2022年)

2022年01月02日 11時46分10秒 | 思った事

新年、あけましておめでとうございます。

旧年中は、色々と御教授、またご心配を頂き誠にありがとうございました。

おかけさまで、家族一同元気に新年を迎えることが出来ました。

今年も、出来る事を、許される事を、精一杯つとめたいと存じます。

何卒届かぬ者でありますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

  長谷川喜郎

 

本日は、2022年1月2日です。

昨日、大教会の元旦祭も、うちの元旦祭も無事に終え、新年を迎えました。

大教会の元旦祭では、いつもぎりぎりに起きて出かけるところ、少し余裕を持って起きました。

すると、新聞配達へ出かけている妻の書置きがあり、直轄の信者さんを途中で拾って向かいました。

これまでならば、自分で運転して行かれていた方ですが、高齢で運転はやめられたのでした。

朝5時の暗い中からつとめる大教会の元旦祭。

ご本部と同じですが、ご本部では5時に本部詰所を出られるので、祭分奏上は大教会の方が早くなります。すわり勤めの地方と前半のておどりをつとめさせて頂き、7時過ぎに祭典終了となります。

終って神殿を出ると、すでに日が昇り、清々しい空気の中を、教会へ戻ります。

大教会へ向かう時にはさほど感じなかったのですが、教会へ戻る時には、車が例年よりもずっと少ないと感じました。

ある仕出し屋さんの、おせち料理のバイトに行かれる方から聞いた話では、例年ならば7万個のところが今年は9万個でとても忙しかったとの事でした。

コロナ禍でそれだけ家で過ごす方々が多い事の現れだと思いました。

 

教会へ帰ると、皆寝ています。

妻も疲れてコタツで休んでいます。

自分一人で、妻が用意をしてくれてある雑煮を食べて、ゆっくりと時間を待ちます。

元旦祭をつとめる30分くらい前に、皆に声を掛けるのですが、次男だけがなぜか、参拝場のストーブのに真剣な顔をしています。

「どうした事なのか?」と思っていました。

すると長男も起きて来て、なにやら次男と話をしています。

すると突然、「やったー!できた~~!」との次男の叫び声。

何事かと思いきや、なかなかクリアできなかったゲームがクリアできたそうです。

昨日から険しい顔をしていた理由がようやく分かりました。

スッキリとしたようで上機嫌で、元旦祭をつとめてくれました。

元旦祭では、長女はおぢば、次女は仕事なので、子ども5人と私たち夫婦2人の7人でのおつとめです。

私たち夫婦はておどり、長男が拍子木と地方、次男がすりがね、三男が小鼓、四男がチャンポン、三女が胡弓に座りました。

座る途中に次男が、長男に「鳴物が少ないから、拍子木とチャンポン同時にやってみ。(^^)」と

「むつかしい、無理だよ」と長男。

「太鼓とすりがねは同時にできるよ」と私。

「じゃぁやってみる」と次男。

今では、太鼓とすりがねを同時にやる事は、ほとんど見なくなりましたが、昔はよく見ていました。

初めての挑戦です。難しくて出来ないかもと思っていたのですが、

すわり勤め、前半下りと同じ役割で勤め、次男はやり切りました。

後半下り、次男と長男が入れ替わり、三男がチャンポン、四男が笛に変わりました。

次男は、地方が初めてです。

長男はもたつきながらも、何とか勤めました。

おつとめを終えて、

次男「三男が隣で地方をしっかりと歌ってくれたから出来た。」

長男「地方を歌う余裕などなかったよ」

私「テンポが速すぎた時、抑えてくれてありがとね」

次男「早くなければ左手(太鼓)が持たなかったよ」

(^^)(^^)(^^)

28年前、たった二人だけの元旦祭が、今年不揃いながらも、心使いあって楽しくつとめれる元旦祭になれた事をありがたく思いました。

 

音楽について書かれていたある方の投稿を見て、本部のおつとめがどんどんスローテンポになって行く事を思い出して投稿した。

今回の元旦祭、余りにもテンポが速すぎて、女鳴物がついて行けなかったので、テンポを抑えるように話したのだが、テンポが速いと陽気になるのは事実である。

すりがねの「チン、チキ」。

このリズムはとても軽快なリズムである。

これに意識をもって、拍子木を叩くと、自然とアップテンポになる。

すりがねのリズムはとても重要である。

ところが、これが行き過ぎると、早くなりすぎて、胡弓が追い付かなくなるのである。

地方をしながら胡弓の弓の動きを見ていると良く分かる。

また、ておどりも早すぎると息が切れる。

それぞれの特徴を考えて、丁度よい、心地の良いおつとめが出来るのが最高だと思う。

 

元旦祭を終えて、食事をした後、次女のつとめるケーキ屋さんでお年賀を買い求めて、大教会へ妻と子供たちが出かけた。

今年はケーキが売れすぎて、全く休めない状態の次女のケーキ屋さんですが、疲れたと言いつつも不足も言わずに、今日も出かけて行きました。

 

「八つのほこり」で、「ほこりでなき事をほこりと思い違えたり、ほこりの事をほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。」と言われている。

善悪を見分ける事。(自他ともに)これが一番大切な事だと思う。

生かされている事に対する感謝。

これが第一ではあるが、それの次に心の使い方を知らなければ、いつまで行っても自分中心で、いがみ合う世界でしかない。

「心定めが第一やで」

親神様・神様に受け取って頂ける心を定める事。

これも大切な事である。

それぞれが、それぞれの心の動きに気付き、心を切り替える中に幸せが訪れるのである。

これが、いんねん切り替えであり、生きながらにしての出直しである。

このことわり(理)を教えたいと、だめ(最後)の教えとして説かれているのである。

 

今年も良い年になりますように!!!

皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

 

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