[ジヌの研究室]
私は彼を待っていた。
〈どうしたのだろう。去年の暮れ、夜遅く訪ねてきて以来来ないな。もう冬休みも終わったというのに…。〉
そういえば、住所も連絡先も聞いていなかった…、迂闊なことだ、私としたことが…。
思えば、不思議な青年だった。
ある日、階段教室の片隅に彼はいた。
ノートも広げず、射るような、何かを訴えかけるような眼差しで私を見つめていた彼…。
思わず吸い込まれるように指名すると、見たこともない公式を駆使して問題を解いて見せた。
『想像力と好奇心で人を探しに来ている』といっていた…。
いったい誰を探しに?…
カン・ジュンサン…。
あの日、ミヒのことを聞いていた。
ミヒとヒョンスの関係。
私との関係…。
ひょっとして…、あの青年はミヒの子供?…
そんなはずはない。
いや、あってはならないのだ。
私は自分にそう言い聞かせた。
彼との会話が、忘れていた“あのこと”を思い出させた。
たった一度の秘めごと…。
幼い頃から想いつづけた人との…。
しかし『それ』はその想いが報われたわけではなかった。
それでも良かった。
後悔はしていない。
その一時(ひととき)だけでも、その人にとって自分は必要な人間でいられたのだから。
たとえ、それが身代わりであったとしても…。
私はミヒを愛していた。
それはいつの頃からの想いだったのか、私自身にも記憶がない。
幼い頃からいつも私の傍らにはヒョンスとミヒがいた。
それは私にとって当たり前の光景だった。
ヒョンスは何でも言い合える親友であったし、ミヒは妹のようであり、また恋人のようでもあった。
幼い頃は良かった。
男女の区別なく、互いに子犬のようにただじゃれあって遊ぶことができた。
それがいつの頃からか、男であり、女であることを意識せざるをえなくなったとき、自然に距離ができ、恋心が芽生えていることを否定できなくなっていた。
思春期を迎えてもヒョンスはいつも変わらずにいた。
しかし、ミヒがヒョンスに恋をしていることは明らかだった。
ミヒの視線の向こうにははいつもヒョンスがいた。
その眼差しは、自分に向けられるものとは違う。
そのミヒを遠くから見ている自分。
そんな自分を哀れに思うこともあった。
ただ、見つめているだけの恋…。
しかし、どうすることができただろう。
やがて、ヒョンスとミヒの婚約が決まった。
ヒョンスは私の心を思い『すまない』といった。
『ミヒを幸せにできるのは君しかいないんだ。ミヒを幸せに、頼んだよ。』
私にできることは二人の幸せを願うこと…。
私もチヨンと婚約し、私なりの幸せを掴もうとしていた。
そんな矢先のことだった。
ヒョンスに悲劇が訪れた。
兄の交通事故。
会社ののっとり。
父親の死…。
音を立てて崩れていく…
明るく輝いて見えていた未来が…。
幸せとは、こんなにも脆(もろ)く失われやすいものなのか…。
掬(すく)い上(あ)げた砂が指の隙間から零(こぼ)れ落(お)ちていくのを止(とど)めることができぬように…
友人の失意を私は側で見ていることしかできなかった。
何もできない無力感。
自暴自棄に陥ろうとしている彼を助けたのは一人の女性だった。
イ・ギョンヒ
彼女もまた、私と同じ…遠くから彼を見つめ、彼の幸せだけを祈っていた人間だった。
彼女は何も言わず、ただ黙々と働き、ヒョンスとその母を慰め勇気づけた。
倒れても、倒れても、そこから立ち上がるしかないことを、彼女の行動は無言で指し示していた。
やがてヒョンスが彼女に惹かれていくのは仕方がないことだったのかもしれない。
しかし、ミヒはどうなるのだ…。
************
その日、初冬の空は晴れ上がり、柔らかな日差しが新たな門出を迎える二人に降り注いでいた。
教会の鐘の音が澄み切った空気の中を響き渡っていく。
家族と僅かな友人だけに囲まれたささやかな結婚式。
友の結婚を祝福しつつも、ミヒの嘆きを思うとき、私の心はどうしようもなくまた友を恨むのだった。
ミヒ?
その場にいるはずのない彼女の姿が、教会から消えるのを見たとき、不吉な予感が走った。
私はヒョンスにだけ耳打ちすると、彼女の後を追いかけた。
まさか…、早まったことをしないでくれ…。
彼女の気性を思うと、それは有り得ないことではなかった。
早く探し出さなければ…。
川のほとりの林の中をおぼつかない足取りで行く人影が見えた。
ミヒだった。
ミヒは雲の上を歩くように、静かに川に入っていく。
ミヒの体がぐらりと傾き、水の中に倒れこもうとしたとき、危うく間に合った。
初冬とはいえ、川の水は冷たかった。
全身ずぶ濡れになり、ミヒは気を失っていた。
幸いあたりに人影はなく、私は急いで車にミヒを乗せるとそのまま走り去った。
ミヒの別荘に着くとすでに管理人さんが鍵を開け、火を焚いてくれていた。
まもなくミヒの兄とお手伝いさんが到着した。
「ジヌ君。ご配慮、本当に感謝する。
今日ミヒの姿が見えないので心配をしていたのだ。
まさかヒョンス君の結婚式に行くとは思わなかった。
最近は落ち着いてきていたから、少しづつ心の整理がついてきているとばかり思っていたのだ。
迂闊だった。
ジヌ君、ミヒが落ち着くまで、もう少し側にいてやってはもらえないだろうか?
私はすぐ戻って、父に話をしなければならない。
明日にでも人を寄こすから、どうだろう?
誰にでも頼めることではないのだ。
人に知れればあの子の将来に傷がついてしまう。
かといって、一人で置いてはまた何をしでかすかわからない。」
「わかりました。実家のほうには、今日は寄らずにソウルへ帰るといってありますので、ご心配には及びません。」
くれぐれもよろしくといって、ミヒの兄はお手伝いさんをつれて帰っていった。
部屋へ戻ると、暖かい服に着替えさせられたミヒは火の前に座っていた。
〈肩の辺りが痩せたな〉と私は思い、ミヒが哀れであった。
「ミヒ、温かいミルクを持ってきたよ。一緒に飲もう。」
ふりむいた目が虚(うつ)ろだった。
「ジヌ?あ、ありがとう。いただくわ。
お兄様とヒョンスは?帰ってしまったの?
せっかく久しぶりに4人で話がしたかったのに。
ああ、あったかくて美味しいわ。」
「ミヒ、ヒョンスは来ていないよ。
今日は何の日だったか覚えていないのかい?」
「今日?今日は…、私何をしていたのかしら?…
そういえばどうしてここにいるの?
ええと、今日は、お医者様へ行ってお薬を頂く筈だったのよ。
でも、家を出て…。」
ミヒの手からカップが転がり落ちた。
飲みかけのミルクが床を濡らし、微(かす)かに湯気を上げていた。
「今日は…、ヒョンスの結婚式だったのね。
とうとうあの人は、私の元には戻らなかった…。」
ミヒの瞳から溢れ出でた涙は頬を伝い、ミルクの海の中にぽとり、ぽとりと落ちていった。
あの人は 私の元に 戻らない
分かりたくない 悲しい現実
幸せを 願っていたのに 愛し君
愛に破れて 涙流すか
かりそめの 逢瀬でもいい 今だけは
恨みを忘れ 静かに眠れ
追記 ↑のお話は、ユソンの恋 6「過去 ④」とユソンの恋 7「過去 ⑤」とリンクしています。
あわせてお読みいただけると幸いです。
私は彼を待っていた。
〈どうしたのだろう。去年の暮れ、夜遅く訪ねてきて以来来ないな。もう冬休みも終わったというのに…。〉
そういえば、住所も連絡先も聞いていなかった…、迂闊なことだ、私としたことが…。
思えば、不思議な青年だった。
ある日、階段教室の片隅に彼はいた。
ノートも広げず、射るような、何かを訴えかけるような眼差しで私を見つめていた彼…。
思わず吸い込まれるように指名すると、見たこともない公式を駆使して問題を解いて見せた。
『想像力と好奇心で人を探しに来ている』といっていた…。
いったい誰を探しに?…
カン・ジュンサン…。
あの日、ミヒのことを聞いていた。
ミヒとヒョンスの関係。
私との関係…。
ひょっとして…、あの青年はミヒの子供?…
そんなはずはない。
いや、あってはならないのだ。
私は自分にそう言い聞かせた。
彼との会話が、忘れていた“あのこと”を思い出させた。
たった一度の秘めごと…。
幼い頃から想いつづけた人との…。
しかし『それ』はその想いが報われたわけではなかった。
それでも良かった。
後悔はしていない。
その一時(ひととき)だけでも、その人にとって自分は必要な人間でいられたのだから。
たとえ、それが身代わりであったとしても…。
私はミヒを愛していた。
それはいつの頃からの想いだったのか、私自身にも記憶がない。
幼い頃からいつも私の傍らにはヒョンスとミヒがいた。
それは私にとって当たり前の光景だった。
ヒョンスは何でも言い合える親友であったし、ミヒは妹のようであり、また恋人のようでもあった。
幼い頃は良かった。
男女の区別なく、互いに子犬のようにただじゃれあって遊ぶことができた。
それがいつの頃からか、男であり、女であることを意識せざるをえなくなったとき、自然に距離ができ、恋心が芽生えていることを否定できなくなっていた。
思春期を迎えてもヒョンスはいつも変わらずにいた。
しかし、ミヒがヒョンスに恋をしていることは明らかだった。
ミヒの視線の向こうにははいつもヒョンスがいた。
その眼差しは、自分に向けられるものとは違う。
そのミヒを遠くから見ている自分。
そんな自分を哀れに思うこともあった。
ただ、見つめているだけの恋…。
しかし、どうすることができただろう。
やがて、ヒョンスとミヒの婚約が決まった。
ヒョンスは私の心を思い『すまない』といった。
『ミヒを幸せにできるのは君しかいないんだ。ミヒを幸せに、頼んだよ。』
私にできることは二人の幸せを願うこと…。
私もチヨンと婚約し、私なりの幸せを掴もうとしていた。
そんな矢先のことだった。
ヒョンスに悲劇が訪れた。
兄の交通事故。
会社ののっとり。
父親の死…。
音を立てて崩れていく…
明るく輝いて見えていた未来が…。
幸せとは、こんなにも脆(もろ)く失われやすいものなのか…。
掬(すく)い上(あ)げた砂が指の隙間から零(こぼ)れ落(お)ちていくのを止(とど)めることができぬように…
友人の失意を私は側で見ていることしかできなかった。
何もできない無力感。
自暴自棄に陥ろうとしている彼を助けたのは一人の女性だった。
イ・ギョンヒ
彼女もまた、私と同じ…遠くから彼を見つめ、彼の幸せだけを祈っていた人間だった。
彼女は何も言わず、ただ黙々と働き、ヒョンスとその母を慰め勇気づけた。
倒れても、倒れても、そこから立ち上がるしかないことを、彼女の行動は無言で指し示していた。
やがてヒョンスが彼女に惹かれていくのは仕方がないことだったのかもしれない。
しかし、ミヒはどうなるのだ…。
************
その日、初冬の空は晴れ上がり、柔らかな日差しが新たな門出を迎える二人に降り注いでいた。
教会の鐘の音が澄み切った空気の中を響き渡っていく。
家族と僅かな友人だけに囲まれたささやかな結婚式。
友の結婚を祝福しつつも、ミヒの嘆きを思うとき、私の心はどうしようもなくまた友を恨むのだった。
ミヒ?
その場にいるはずのない彼女の姿が、教会から消えるのを見たとき、不吉な予感が走った。
私はヒョンスにだけ耳打ちすると、彼女の後を追いかけた。
まさか…、早まったことをしないでくれ…。
彼女の気性を思うと、それは有り得ないことではなかった。
早く探し出さなければ…。
川のほとりの林の中をおぼつかない足取りで行く人影が見えた。
ミヒだった。
ミヒは雲の上を歩くように、静かに川に入っていく。
ミヒの体がぐらりと傾き、水の中に倒れこもうとしたとき、危うく間に合った。
初冬とはいえ、川の水は冷たかった。
全身ずぶ濡れになり、ミヒは気を失っていた。
幸いあたりに人影はなく、私は急いで車にミヒを乗せるとそのまま走り去った。
ミヒの別荘に着くとすでに管理人さんが鍵を開け、火を焚いてくれていた。
まもなくミヒの兄とお手伝いさんが到着した。
「ジヌ君。ご配慮、本当に感謝する。
今日ミヒの姿が見えないので心配をしていたのだ。
まさかヒョンス君の結婚式に行くとは思わなかった。
最近は落ち着いてきていたから、少しづつ心の整理がついてきているとばかり思っていたのだ。
迂闊だった。
ジヌ君、ミヒが落ち着くまで、もう少し側にいてやってはもらえないだろうか?
私はすぐ戻って、父に話をしなければならない。
明日にでも人を寄こすから、どうだろう?
誰にでも頼めることではないのだ。
人に知れればあの子の将来に傷がついてしまう。
かといって、一人で置いてはまた何をしでかすかわからない。」
「わかりました。実家のほうには、今日は寄らずにソウルへ帰るといってありますので、ご心配には及びません。」
くれぐれもよろしくといって、ミヒの兄はお手伝いさんをつれて帰っていった。
部屋へ戻ると、暖かい服に着替えさせられたミヒは火の前に座っていた。
〈肩の辺りが痩せたな〉と私は思い、ミヒが哀れであった。
「ミヒ、温かいミルクを持ってきたよ。一緒に飲もう。」
ふりむいた目が虚(うつ)ろだった。
「ジヌ?あ、ありがとう。いただくわ。
お兄様とヒョンスは?帰ってしまったの?
せっかく久しぶりに4人で話がしたかったのに。
ああ、あったかくて美味しいわ。」
「ミヒ、ヒョンスは来ていないよ。
今日は何の日だったか覚えていないのかい?」
「今日?今日は…、私何をしていたのかしら?…
そういえばどうしてここにいるの?
ええと、今日は、お医者様へ行ってお薬を頂く筈だったのよ。
でも、家を出て…。」
ミヒの手からカップが転がり落ちた。
飲みかけのミルクが床を濡らし、微(かす)かに湯気を上げていた。
「今日は…、ヒョンスの結婚式だったのね。
とうとうあの人は、私の元には戻らなかった…。」
ミヒの瞳から溢れ出でた涙は頬を伝い、ミルクの海の中にぽとり、ぽとりと落ちていった。
あの人は 私の元に 戻らない
分かりたくない 悲しい現実
幸せを 願っていたのに 愛し君
愛に破れて 涙流すか
かりそめの 逢瀬でもいい 今だけは
恨みを忘れ 静かに眠れ
追記 ↑のお話は、ユソンの恋 6「過去 ④」とユソンの恋 7「過去 ⑤」とリンクしています。
あわせてお読みいただけると幸いです。