優緋のブログ

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〈いま願う―戦後77年― 信仰体験〉19 南の島テニアンの悲劇 抜粋

2022-10-19 13:23:00 | 聖教新聞を読む

🌸 「争いを引き起こすのは心。戦争は絶対にダメで


✨ 五十嵐奈美子さん(89)支部副女性部長
日本から南へ2500キロ。
太平洋の北マリアナ諸島の一つテニアン島で生まれた。
同島は第1次世界大戦以降、統治権がドイツから日本に移り、
政府はサトウキビ栽培の一大拠点として、
破格の待遇で移民を募った。
そこは「南国の楽園」のはずだった――。

✨ テニアン島が
見渡す限りのサトウキビ畑に開拓されていくのは、
1920年代の後半から。
移民の両親は、照りつける太陽の下でサトウキビ栽培に汗を流す
五十嵐さんは同級生と海へ出かけたり、
2人の兄と畑で追いかけっこをしたりして遊んだ。
そんな楽園テニアンは、
戦争によって地獄の島へと一変していく。

✨ 1941年(昭和16年)
太平洋戦争が始まる
2人の兄は徴兵され本土へ
島には飛行場が建設され、
日本軍の拠点に
兵隊が常駐し
五十嵐さんの家も兵舎として提供された。

✨ 44年6月。
アメリカ軍による徹底した空爆と艦砲射撃が始まる。
一日の大半を防空壕の中で
轟音が鳴り響くたびに地面が揺れ、
隙間から爆風が流れ込んだ。
生きた心地がしなかった。
13歳の少女は、新しい人生の始まりを予感した。

アメリカ軍はサイパンの隣りにあるテニアン島に、1944年7月24日上陸を開始。歩兵第50連隊を主力とする日本軍は8月3日、南端のカロリナス山で玉砕した
(毎日新聞社提供)
✨ 翌月、
4万のアメリカ軍が北部の海岸に上陸。
日本軍の5倍の数の米兵
住民も義勇隊として戦闘に
五十嵐さんの父も、その一人

✨ 父は食事が喉を通らず
お茶を一杯だけ飲むと「行ってくるよ」
母が無言で続く。
振り向きざま父はじっと娘を見つめる
何も言わず足早に家を出た。
それが最後の姿となった。

✨ 残された高齢者、女性や子どもは、
南部のカロリナスへの移動を命じられた。
2歳の妹を背負い、山の中へと入っていく。
昼間は岩陰に隠れ、夜を待って歩き出す。
真っ暗闇の中、息を殺して進む。
大粒の雨が気力と体力を奪っていった。

✨ 照明弾がパッと辺りを明るくすると、
ヒューと音が迫ってくる。
爆音とともに地面がめくれ上がった。
“次こそ当たるかもしれない……”。
砲弾が降り注ぐ中を、
逃げ回るしかなかった。

✨ 先刻まで一緒に逃げていたご近所さんの姿がない。
来た道を戻ると、
家族の母親が、
脚の肉をえぐられ横たわっていた。
近くには娘の亡きがら
母親はそんな状態でなお、
赤子に母乳をあげていた。

✨ 何日も山の中をさまよい、
岩場に追い詰められた。
先の洞窟は、
自決のための「玉砕場」になっていた。
食料も水もない。
限界だった。

✨ 「私たちも死のうよ」
母は強い口調で「子どもを殺せるわけがないだろう」
母は歩き出した。
「米兵に捕まったら、耳や鼻をそがれる」と聞いていた。
“娘たちだけでも……”。
母は決意を固めていた。

✨ 白いガーゼを白旗の代わりに振り、
米兵の前に歩み出た。
アメリカ兵の表情は、
想像と違って穏やかだった。

✨ 「生きて虜囚の辱めを受けず」
散々耳にした言葉がかすんでいく。
“そんなことより水が欲しい”。
収容所へ向かうトラックに揺られながら、
諦めとと悔しさと、
深い悲しみをかみ締めた。
テニアン島の戦いは、
日本軍の玉砕という形で終結
集団自決した人も含め、
民間人にも多くの死者を出した。

✨ 終戦から半年後の46年2月。
約1年半の収容所生活を終え、
日本への引き揚げが始まった。
生まれ育ったテニアン島を後にし、
両親の故郷である福島県の会津へと向かう。

✨ 列車の車窓から見える銀世界に驚いた。
雪を見るのは初めて。
「この雪が全部、お米だったらいいのにね」。
日本でも苦しい生活が続いた。
母は働きに、
五十嵐さんが家事や妹の世話を担った。

✨ 16歳で単身東京に。
知り合いの家で、住み込みの家事手伝いとして働く。
同世代が学校で学びに励み、
友人と遊びに興じる姿を見るたび胸が痛む。
何のために生きているのか分からなくなった。
どこかへ逃げ出したかった。

✨ 奪われるばかりで“私には何もない。
父が戦死しなければ。
学校に通えていれば。
戦争さえなければ……”。
自身の境遇を恨み
孤独と、やり場のない怒りが
胸の内にたまっていく。

✨ その後、飲食店などを転々と
27歳で、職場で知り合った同郷の人と結婚。
幸せを得られると思った。
だが、夫はろくに働かず、
酒を飲んでは暴力を振るった。

✨ ある日、
アパートの隣の部屋からにぎやかな声が
気になってドアの前で様子をうかがっていると、
ふいにドアが開き、
中に招かれた。
創価学会の座談会だった。

✨ “私の苦しみを知ってほしい”。
温かな雰囲気に思わず本音がこぼれる。
止まらなくなった。
すると「この題目なら必ず幸せになれます!
差し出された手を握り返し、
60年に入会した。

✨ 今の状況から抜け出したい。
無我夢中で御本尊に祈った。
祈るほどに体の芯から熱いものが込み上げてくる。
“逃げたい”命が
“強くなりたい”に変わった。

✨ 不遇を嘆くのはやめた
学会活動の中に幸せを求め
夫と離婚し、
懸命に働きながら折伏に歩いた。

✨ 原点がある。
95年(平成7年)
ハワイ文化親善交流団の一員としてハワイへ。
訪問中の池田先生から
“聡明な女性に”と励まされた。
自らの使命を教わった気がした。
戦争に苦しめられた悲運の人から、
信強き女性へと生まれ変わること。
師の言葉を人生の羅針盤として、
広布のため、
平和のために戦い続けることを誓った。

✨ 戦争の体験を語ってきた。
「ある日突然、命を奪われる。こんな理不尽はありません」
証言は数冊の本にまとめられ、
戦争の悲惨を後世に残す一助となっている。
「池田先生が先頭に立って平和を築いてくださっている。弟子が続かないわけにはいかないですよね」
89歳を迎えた今も、
その決意は変わらない。

✨ 平和とは、
単に『争いなき平穏』を指すのではない。
一人一人の内なる生命の変革なくして、
揺るがぬ真の平和を築きゆくことはできないでありましょう
(池田先生の言葉)

✨「争いを引き起こすのは心だもの。
戦争は絶対にダメです。
常に自分を見つめて、
心穏やかでなきゃいけない」

✨ 毎朝、御本尊に向かい、
胸中の師との対話から一日をスタートする。
“きょうの地道な語らいが、
平和への着実な一歩”であると
確信している。


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