理想国家日本の条件 さんより転載です。
笑顔も活気もあるじゃない!カンニング竹山さんが驚いた福島第1原発
お笑い芸人のカンニング竹山さん(45歳)は、プライベートでたびたび福島を訪れています。普通の観光客として福島に来て、県産品を食べ、酒を飲み、人に会うことが竹山さんなりの支援です。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が起きた2011年、TBSラジオの報道番組で福島を訪れて以降、多忙なレギュラー番組出演の合間を縫い、何度も何度も後輩芸人や奥さんを連れて福島県内各地を回り、ツイッターでその様子を発信しています。そんな竹山さんが5月31日、廃炉作業が続く福島第1原発に入りました。親交ある元ラジオ福島のフリーアナウンサー大和田新さん(61歳)が東電との間を取り持ち、実現した私的な見学です。事務所の後輩で、出身地福岡の中学の2年後輩でもある漫才コンビ髭男爵のひぐち君(42歳)が一緒に来ました。芸人さんがプライベートで事故後の第1原発を見学するなんて、もちろん初めてのことです。
事故から5年。内部で核燃料が溶け落ちた1~3号機の原子炉建屋周辺は放射線量が依然ものすごく高く、危険です。厳重に防護しないと人間は近づけませんし、建屋の中や核燃料がどうなっているかは遠隔操作のロボットで様子をうかがうしかありません。東電は廃炉まで30~40年と見込んでいますが、専門家や研究者からは100年かかるのではないかとの指摘もあります。はっきりとは先が見えない状態が続く中、廃炉に向けた建屋周辺での作業はもちろん、土木や建設、配管、配線、古い汚染水タンクの解体、水関係の処理、除染など建屋から離れた所にもさまざまな現場があり、多くの企業から派遣されたいろいろな分野の技術者や作業員が1日当たり6千~7千人働いています。その半分は福島の人です。
建屋周辺以外、敷地内の9割は防護服も全面マスクも必要ない放射線量にまで下がっています。自然減と除染の結果だそうです。線量を下げるため土の地面や斜面は多くがコンクリートやモルタルで覆われました。桜並木もあって事故前の構内は緑が濃かったのですが、ほとんどの木が切られました。多くの現場では、みな普通の作業服姿で防じんマスクをしています。防護服と全面マスクでは息苦しく暑いため、夏場を中心に作業効率が下がり、熱中症も多発しました。放射線量を下げ、少しでも労働環境を良くしたいというのがここ数年の東電の大きな目標でした。
原子炉建屋に近づくと放射線量がはね上がるですから竹山さんたち見学者も、ポケット線量計や立ち入り証を入れるベストを普段着の上に羽織るだけです。バスから外に出るときだけはヘルメットをかぶります。事故直後、線量計のアラームが鳴り響く中、消防や自衛隊が決死の覚悟で立ち向かった映像イメージがある場所ですから、一般的には防護服と全面マスク、ゴム手袋、長靴の重装備を思い浮かべます。「こんな軽装でいいんだ」。竹山さんの最初の驚きでした。汚染水を保管するタンク群の間を抜け、1~4号機を見渡せる高台でバスを降りました。壊れた3号機の建屋上部がむき出しで見えます。爆発しなかった2号機は水色の建屋がそのまま。外見は穏やかですが、内部は四つの建屋の中で放射線量が最も高く、ほとんど手を付けられない状態です。高さ100メートルを超える遠隔操作の巨大クレーンや排気筒が、青い空に向かってそびえ立っています。
「原発って、こんなに大きいんだ」「ものすごい爆発だったんだ」「たくさんの人がいろいろな現場でいろいろな作業をしているんだなあ」。竹山さんがストレートな印象を次々口にしました。現場に来ると、まずスケールを体で実感します。私も最初の見学ではそうでした。
バスに戻って4号機へ向かう坂を下りると一気に線量が上がってきます。路上で作業する人たちも防護服に全面マスク、ヘルメットの完全装備です。使用済み燃料を取り出すために建設された高さ58メートルの鉄骨組みカバーを、竹山さんは車内からじっと見上げました。
東電の対策本部がある免震重要棟では、6月末で退任する小野明所長が迎えてくれました。「着任した3年前は汚染水対策で火事場のようでしたが、最近は少し落ち着いてきました。建屋の中は放射線量が高くて、ぱっと人が行って対応できるような現場じゃありません。遠隔操作のロボット技術が今後より必要性を増してくるでしょう」。竹山さんの質問に所長が静かに答えます。
免震重要棟や休憩棟に入ると、大勢の東電社員や関係企業の作業員と行き交います。東電社員は赤いTEPCOマークが胸にある青色の作業服。そのほかは会社や従事する現場によって色もスタイルも違う作業服です。多くは男性ですが、時折女性もいます。「お疲れさまです」「ご安全に」。互いに声を掛け合いながらすれ違う廊下を、誰もが知るテレビの人気者が通るものですから「あれ?」「竹山さん!」「カンニングだ!」「どうしてここにいるの?」と声が上がりました。握手やスマホ撮影の求めに、竹山さんが笑顔で応じます。ちょうど昼時。食堂で昼食を取ることになりました。380円均一で、ごはんとおかずの定食2種類、カレー、麺類、丼ものが選べます。休憩棟は昨年5月に完成しました。エアコンの効いた企業ごとの控室と大食堂があります。第1原発から西へ9キロの大熊町に建設された専用の給食センターで作られた食事が、昼から夕方にかけて1日5回、約3千食トラックで運ばれてきます。食材は原則福島県産を使っています。以前はコンビニのおにぎりや弁当を作業員がそれぞれ持ち込んで、日陰や廊下の隅に座り込んで食べていました。
これも東電が目指した労働環境改善の一つです。食堂の女性従業員に「いらっしゃいませ」「たくさん食べて」と明るく声を掛けられ、あたたかいご飯や汁物が取れるようになった。コンビニが開店し、飲料水の自販機も設置された。すると休憩中の作業員同士で会話が増え、構内の空気が和らいできたそうです。コンビニの1番人気商品はシュークリーム。食後に甘い物を口にして、心を和ませたい心理でしょうか。竹山さんの案内を担当した東電の社員は「イチエフ(第1原発)というと異空間のようなイメージだと思いますが、こうして町中に普通にあるものがあると、ほっとします。もちろん被ばくを伴う作業現場ですから、普通の町中とは同じではありませんが・・」と漏らしました。
竹山さんは揚げ鶏のコチュジャンソース定食、ひぐち君はほうれん草カレーを選びました。男性作業員向けなのでボリュームは多めです。黙々と食べる2人を、大勢の作業員がにこやかに見つめています。職場を見学に来てくれて、同じものを食べている仲間意識のような雰囲気が芽生えていました。
被ばくを最小限に抑えるため、休憩棟には窓がありません。7階に唯一ある見学用の窓から汚染水をためているタンク群を眺めたり、構内全体の配置を模型で説明されました。フル装備の防護服と全面マスク、ゴム手袋の試着もして、汗だくになりました。約3時間の見学中、ずっと真剣な表情で小さなメモ帳にペンで記しながら回った竹山さんの姿は、私と同業の新聞記者のようでした。
「いやあ、来てよかった。毎回福島に来るたびに復興の進み具合が見えたりして新しい発見があるんですが、きょうはイメージと現実の落差に驚きの連続で、びっくりすることばかりでした。福島第1原発の中がどうなってるか知っている人って、ほぼいないでしょう。情報もなかなか出てこないし。私も含めて、ものすごくひどい環境の中で過酷でっていうイメージですよ。それが、けっこうみんな笑顔も見せて、楽しく仕事しているように見えました」
「やんちゃっぽい地元の兄ちゃんもいるし、女性もたくさんいて、活気があるじゃないですか。原発の外でも、周辺地域に多大な迷惑を掛けたからって東電社員がいろいろな奉仕活動をしていることを初めて知りました。社員も作業員の皆さんも本気なんだなって分かりましたよ。こんなこと言うのもおこがましいけど、うれしかったです。もし若かったら、ここで働いてみたいと思いました。内と外のギャップをなくす努力を、これから僕なりにやってみます」
自腹で福島に通い続け、連れて来た後輩の交通費や宿代、飲食代も全部おごっている竹山さんです。太っ腹な心意気と、何でも自分の目で見てやろうの精神に私は大いに共感しました。夜は酒を飲みながら「次はバラエティで入りたいなあ。でも(笑福亭)鶴瓶師匠が一番の適任かな」と秘めたる構想(?)を披露。さすが売れっ子、またイチエフでお会いしましょう!!
1965年福岡県生まれ。読売新聞西部本社(熊本支局)から1993年に共同通信へ。成田支局、東京社会部などを経て2012年6月から14年6月まで福島支局長。社会部記者時代は東京地検、旧運輸省、皇室を担当。シドニーパラリンピック、日韓共催サッカーW杯の取材チームにも属した。福島に来て、福島がとても好きになりました。今は東北全体が大好きです。