それこそ10年も前のこと。
会議室に、
ちょこんと座ってた
まるで双子のような
姉妹のボーカリスト。
新潟のクラブで歌い
米軍基地でもライブをこなしてきたという2人は
会話しているうちに
そのまま小鳥がさえずる様に歌をくちずさみ
カウントもなしにハーモニーが生まれた。
僕はそれを
不思議な気持ちで見ていた。
その奇跡のような歌声は、
きっと
神様が人間にくれた
プレゼントなのだと思った。
外見よりも
ピュアで優しい2人は
僕の番組に出演後、
「とても緊張しておなかも痛かったのに
楽しい話で、安心して出演できた」と
あどけなく笑ってくれた。
そのまま、
彼女らに歌ってもらったとき
別の曜日のレギュラーでマブダチの
K-1選手の宮本正明選手から電話が入った
「今流れた曲何っ?!
日本人であんな歌を歌える人がいるのっ?!」
・・・で、わざわざスタジオまでかけつけてきた(笑)
その後、PDのアンジーを含め
僕らは友達になり、
時折出演もしてもらうようになった。
宮本選手は「自分の入場曲」に彼女らの曲を選び、
アンジーがさらにSEを入れてリミックスして
それがあの日、代々木体育館に
響き渡った。
宮本選手は
仲間の存在をその広い背中に感じながら
あのアンディ・フグに挑んでいったんだ。
やがて、僕はFMを離れ
僕の番組は宮本さんや、
パートナーのコギマホに引き継がれた。
でも、
彼女らと番組の縁は続き、
その後もゲスト出演をしてたという。
フリーになった僕は
夢のためには、しゃべり以外の
不本意な仕事だってこなした。
でも、彼女らのCDが出たと聴くと
元町のCDショップに寄って必ず買ってた。
それが
僕らの夢をつないでいるような気がしたから。
1999年の
ある晩、
ラジオ以外の仕事で疲れ果てて帰ったとき
宮本さんから電話が入った。
「石森さん、落ち着いて聴いてください。
サッちゃんが亡くなりました」
僕は言葉を失った。
姉妹のお姉さんが急逝した。
僕は
文字通り、天使の片翼が
もがれたような気がして
妹のTAKAKOちゃんのことを心配した。
当然ながら活動休止。
でも。
翌年、ソロ・プロジェクトとして
見事に復帰を果たした。
それからの活躍は
枚挙にいとまがない。
まだ、
僕らのことを
覚えていてくれるだろうか(苦笑)
でも、ちょっと
がんばりすぎなんじゃないかって
心配になるぐらいだった。
以前から患っていた
神経性胃炎の治療のため
活動を休止する、
・・・という情報を聞いたのは
きょうのこと。
そういえば
最初に番組にでてくれたときも
おなかが痛いって言ってたっけ。
ゆっくりやすみなよ。
この休養期間がまた
きっと歌にいい影響を
もたらしてくれるさ。
あれからの僕らは、
それぞれいろいろあって
立ち止まっていたりもするけど
何もまだ終わっていない。
また、いつか会おうね。
まだ知らないなら覚えてほしい。
彼女の名は
「DOUBLE」
きっともう一度
その声を聴くときがくるから。